2013年8月10日土曜日

ヨーロッパの歴史はわかりくいからバルト三国へ―

 はじめてバルト三国に行きたいと思ったのはいつのことだったか。なぜバルト三国だったか。もう忘れてしまった。ともかくも次にヨーロッパに行くならバルト三国だと数年来考えていた。

 ヨーロッパの歴史はわかりにくい。というか、少なくとも私にとってはどこか実感を持ちにくい。そこに生きた人々の息遣いというか、生々しい様子がピンとこない。子どものころから史記やら三国志が好きだったせいか、中国の歴史などはなにやら人ごとには思えないのだが。

 中世あたりは特にそうだ。
 世界史の教科書的にいうと、ヨーロッパの黎明はギリシャの都市国家から始まり、つづいてローマが起こり、ケルト人を大陸から追いやった。4世紀にゲルマン民族が侵入を開始し、以後、一時期ノルマン人やイスラム勢力の支配があったことを除けば、西欧は基本的にラテン(=ローマ系)とアングロサクソンを含むゲルマン系の2つの民族が主要な地位を占めているはずである。
 ところで、カール大帝のもとで大王国となったフランク王国がベルダン・メンセンの各条約で3つに分かれ、これが現在のドイツ・フランス・イタリアの原型となったと昔習った。ここが一番ピンとこない。ドイツはゲルマン系、フランス・イタリアはラテン系ではなかったか。フランク王国は、言語や民族的には複層的な地域を統治していて、分裂後は言語・民族にほぼ従った国家の枠組みができたのだろうか。だとすればフランク王国の分裂が3国の原型となったと評するのは的を得ていないのではなかろうか。

 イギリス、フランス、スペインというのは比較的早期に王朝が成立しているからまだなんとなく国家の枠組みはわかる。しかし、ドイツとイタリアは統一が19世紀末だから、言語的・民族的にどのようにアイデンティティを持っていたのか、あるいはそもそもそのようなアイデンティティなど存在しなかったのか、一層わかりにくい。たとえば、神聖ローマ帝国の下のドイツは、連邦国家で各領主の自治性がかなり高かったであろうことは想像がつく。ただその分、一応民族や言語によるアイデンティティみたいなものはあったのかがわかりにくいのである。
 リューベックを中心とするハンザ同盟という存在もそうだ。私は勝手に戦国時代の堺のような都市の集合体のように思っているが、ほんとうのことはわからない。さらに、歴史の教科書にはドイツ騎士団領というのも出てきたが、こちらはもっと具体的なイメージの持ちようがなく、お手上げだった。

 さて、バルト三国の話である。ハンザ同盟がはるかバルト三国まで広がっていることは高校の世界史の知識で知っていた。また、中学校の地理でおもしろ半分にすべての国の首都を覚えようというのを友人とやっていたので、独立したてのバルト三国の名称と首都は知っていた。私がもともとバルト三国について知っていたのは、ソ連崩壊に先立ちいち早くこれらの国が独立したことと、第2次世界大戦中のリトアニアで杉原千畝が大量のビザを発行することで多くのユダヤ人を救ったことに加えると、その程度だった。

 もともとどちらかというと観光地然としている場所は苦手な性格だ。今年(2013年)のゴールデンウィークに訪れたウズベキスタンは立派な観光地だったが、それでも多くの友人には「それってどこ」などと驚かれた。中国広西省でトン族の田舎を訪ね歩いたのは間違いなく僕の性格が現れている。
 そういうわけで、ヨーロッパに行くなら西欧は避けようとなんとなく考えており、かすかなバルト三国に対する知識をもとに、旅行先として適するかどうか調べたのだと思う。そうすると、エストニアのタリンやラトビアのリーガはハンザ同盟時代の中世の街並みをきれいにとどめていることを知った。
 そしてさらに思ったのが、これらの国を訪れればハンザ同盟を通じてわかりにくい中世ドイツが理解できるのではないかということである。それで例によって早速バルト三国の歴史を調べ始めると、いろいろ興味深いことがわかってきた。


タリンの城壁。中世ドイツの都市らしい。


 バルト三国はエストニア、ラトビア、リトアニアの3国であるが、意外なことにエストニアと他の2国の間に言語・民族的な共通性はないのである。エストニアはもともとウラル語族系で、実はフィンランドも同様である。東欧では他にハンガリーも同様だ。つまり、同じウラル語族系のチュルク語族とは親戚関係にある。これは5月に訪れたウズベキスタンとの奇妙な縁を感じた。さらにいうと、ウラル=アルタイ語族説を採るとすれば、日本語とは遠い親戚関係にあるのがエストニア語ということになる。
 ラトビアとリトアニアはともにインド=ヨーロッパ語族の一派であるバルト語派に属する。ただ、リトアニアは中世においてポーランドと共同し、ラトビアはリヴォニア騎士団領としてエストニアと運命をともにすることとなった。

 さて、リヴォニア騎士団の名前が出てきたところで、いよいよドイツ騎士団領について触れなければならない。
 唐突だが、ごく大雑把にいえば、中世ヨーロッパを読み解くカギは、3種の利権でないかと思う。すなわち、交易の利権、教会の利権、略奪の利権(というのはややおかしいが)である。中世で儲ける手段を考えるとすれば、貿易などの商業取引をすること、教会の権威をもって住民から利益を得ること、さらに手っ取り早く略奪すること3つの手段があるということだ。中世のまちが高い城壁をもって要塞化しているのは広い意味での略奪、他の都市からの攻撃を防ぐためであろう。教会の利権については宗教改革のネタになった免罪符などを考えれば容易に想像がつくし、そういえば習ったところの叙任権闘争ではローマ皇帝と教皇が利権をめぐって争っていたのだ。十字軍は「異教徒征伐」や「聖地奪還」に名をかりた略奪の側面があったし、またジェノバの商人が商売敵であるコンスタンティノープルの商人に打撃を与えるために利用したことなどを考えればわかる。

 ドイツ騎士団も、要するに交易と略奪の利権のために存在した存在なのだろう。もともとのスポンサーは後にハンザ同盟を構成するブレーメンやリューベックの貿易商で、十字軍に赴くドイツ人兵士を資金的に援助したのが始まりらしい。つまり、貿易商らは異教徒征伐に名を借りて東方との交易上の利権を確保しようとおもったのだろう。そのドイツ人兵団が発展してドイツ騎士団となるのだが、彼らは彼らで領土的な利権を含む広い意味での略奪を同じように考えたのであろう。
 ドイツ騎士団は最初パレスチナに利権を見出そうとするが、イスラム勢力に押されてハンガリー王国を軍事的に助けて利権を確保しようとするが失敗、そして今度はバルト海沿岸地域、プロシア(今のロシアの飛び地になっているカリーニングラード州あたり)に目をつけて成功したというのが大まかな話だ。別にこれもドイツ人のリヴォニア騎士団というのが先立ってラトビアあたりで「異教徒征伐」の名のもとに征服を行っていたのを吸収して、プロシアからバルト三国にまたがる広大な版図を得たということだ。なお、エストニアは先にデンマークが征服していたが、リヴォニア騎士団が買い受けている。


リーガの街並みもどこがドイツ的ではないだろうか。


 話を補完してまとめつつさらにその後を追うと、次のようである。後のエストニア、ラトビア、エストニアを構成する民族は紀元前にはバルト海沿岸地域に存在したが独自の国家を持たず、まずエストニアはデンマークに征服され、三国ともども後にドイツ騎士団に征服ないし買収されたのであり、これが14世紀ぐらいまでのことである。ただ、ほぼ同時にリトアニアはドイツ騎士団の支配を廃してリトアニア大公国を作り、ポーランドと同君連合としてポーランド化の道をたどることになる。
 バルト三国はリトアニアを除き各国の侵略にさらされることになる。スウェーデン、ロシア、そしてポーランドー=リトアニアとドイツ騎士団がバルト海沿岸の覇権をめぐって争ったのがリヴォニア戦争(16世紀後半)で、結果エストニアとラトビア北部はスウェーデンの支配下に、ドイツ騎士団は解体してリヴォニア公国となり実質的にポーランド=リトアニアの支配下に置かれる。
 18世紀にはロシアが台頭し、数度にポーランド分割が行われるなどし、バルト海沿岸はロシアの支配を受けるようになった。結局バルト3国が独立を宣言したのは第一次世界大戦後である。しかし、第二次世界大戦後は事実上ソ連の支配下に置かれることになる。そこから再独立したのが1991年で、当時まだ私は小学生だったが、ベルリンの壁崩壊、バルト三国の独立、ソ連の崩壊と世界が大きく動いたことは、その意味は十分理解できていなくても覚えている。

 さて、ドイツ騎士団支配下のタリン(エストニア)、リーガ(ラトビア)はハンザ同盟に加盟し、大いに発展する。旧市街は基本的にこの時代のもので、要するにドイツなのである。リトアニアだけは独立国家であったから、首都のヴィリニュスは趣を別にするが、詳細はヴィリニュスの項で触れる。


ヴィリニュスの街並みは他の2首都とどこか違う。


 別に現にバルト三国を訪れてヨーロッパの歴史が自然に頭に入ってくるわけではない。が、こうしてあれやこれやと調べているうちに、やはりバルト三国のみならずヨーロッパ全体の歴史が少しはクリアになったつもりでいる。

0 件のコメント:

コメントを投稿