2013年5月5日日曜日

まだ旅の途中―ヒヴァ、ヌクス

 しょうもないこだわりだと思うが、旅先の現地移動にはなるべく飛行機を使わないようにしている。その一つの理由は、飛行機だといかにもどこでもドアでワープしたかのように、距離感がわからないということだ。もう一つは、風景、つまりは地形や植生といった自然や、建物などの文化の変化を見たい、要するに電車やバスの車窓からの風景が好きなのだ。


ゴビを過ぎると車窓には少し緑が目に入ってくる。

  変化を見たい、という意味では半分は目的を果たせていないが、距離感はつかめた。僕はサマルカンドから夜行列車にのって、ウズベク西方の古都ヒヴァへの入口にあたるウルゲンチに向かった。
 サマルカンドを夜の12時前に出た列車は、明るくなるとウズベク中央部の砂漠をひた走っていた。
 ゴビだ―
 まるで新疆の旅の続きのような風景を、久々にみた。ゴビとは、岩でできた砂漠をさす一般名詞だと思っていただければよい。「ゴビ砂漠」はそれが固有名詞化したものだ。いわゆる砂漠に、日本人が普通イメージするような砂漠は少ない。世界中の砂漠のうち大多数がゴビであるはずだ。
 ウズベクは意外に緑豊かだとこの風景を見るまでは思っていた。ナヴォーイからブハラに向かう時も、ブハラからサマルカンドに向かう時も基本的に緑はつねに目に入っていたような気がする。だから、ウルゲンチにほど近くなるまでに見た茫漠たるゴビは私にとって新鮮だった。
 妙に懐かしい気持ちで、普通だったら退屈してすぐに飽きるはずの景色に、僕はなんとなくずっと見入っていた。外に見えるゴビは一緒のようで、祁連山脈が見えたりする甘粛省のものとは、あるいは主にバスから見た新疆のものとはまた少し違うようにも思えた。旅は続いている。同じようで中央アジアの風景は少しづつ変わり行くのだ。

 ウルゲンチ駅を降りると、すぐにヒヴァ行きの乗合タクシーが見つかった。ものの30分、ゴビのようでやや緑の多い道をぶっ飛ばして、タクシーはヒヴァの町についた。

 ヒヴァのまちは、これまで見てきたシルクロードのいかなるまちとも違う趣きだった。なにせ、四方を完璧に城壁が囲んでいるのである。これは、様式は違えど、中国の襄陽とか、荊州のイメージに近かった。思えばシルクロードではじめて本格的なモスクを見たのは、新疆のクチャだったか。いや、トルファンで蘇公塔というりっぱなミナレットを見ている。その後、カシュガルで、ブハラで、サマルカンドでいろんなモスクを見てきたが、思えば徐々に違ってきている。クチャでは、モスクは女人禁制が徹底され、ガイドしてくれたウイグル人女性は中に入らなかった。ウズベクではそういう厳格さはなく、女性も自由に、観光客も現地人もモスク内に立ち入っていたと思う。新疆では、顔を描いた仏教の壁画はその部分が削り取られていたが、ブハラやサマルカンドでは逆にモスクに禁止されているはずの顔が描かれていたものがあった。サマルカンドのモスクでは特に青が強調されていたが、ヒヴァのモスクは青い部分もあるが、基本的に土気色の茶色い世界だった。


ヒヴァの城内はまさに中世イスラムのまちという趣だ。様々な民族が行き交う。


 なんだか遠くに来たものだ―
 そういう感慨は実はまちを離れるころに感じたもので、真新しいタイプのまちを僕はウキウキしながら歩きまわった。
 ヒヴァは、中世イスラムのまちというに本当にふさわしい。ブハラもかなり雰囲気のあるまちだが、城壁がないだけにやや中世を感じにくかった気がする。それに、ヒヴァのまちを歩く人はアラビア風ターバンを巻いた人、インド系の顔立ちの人、金髪碧眼のスラブ人、モンゴル人ぽい顔立ちの人とこれまでのどのまちよりも多彩だった。交易で賑わう中世のまちというのはこのような感じだったのかもしれない。

 ヒヴァのまちは小さい。到着した日の午後にひと通り回ってしまうと、あとはそれほど見る場所はなかった。翌日は丸一日あるが、例によって人の少ない日の出ころの城内をまわると、することもなく、ビールとともに食事を楽しんでゆっくりしていた。
 ヒヴァではビールの相場がよく分からなかった。本来500CCの瓶を1本1500シム(50円強)で買えるはずなのだが、2500シム(100円弱)以下はどこの店でも下がらない。これは城壁内の観光地価格ではないかと思い、宿と城壁から程近い、地元の客で賑わっている売店ならどうかと思って値段を聞いてみた。
 残念ながら値段はやはり2500シム以下には下がらなかった。諦めて購入すると、客のうち一人が「座って飲んで行け」といっているらしい。もちろんそうすることにした。
 客の一人と思っていたのは、店のおばさんでの息子らしかった。彼は27歳だが、ガイドを目指して学校に通っているらしい。しきりにおばさんから「いい機会だから英語で話せ」と促されているようだったが、正直英語のレベルはイマイチで意思疎通にはかなり困難を伴った。それよりも、おばさんの目が離れると、どこで手に入れたのか、携帯電話に保存してある日本のアダルトビデオの動画を見せて来たりと、まあ、正直、先が多少心配な様子な彼なのであった。

 そうしたところ、不意に、一人のウズベク人の客に流暢な日本語で話しかけられた。なんと、早稲田大学に留学していたことがあり、今はウズベクに戻ってガイドの仕事をしているそうだ。たまたま東京近郊から夫婦で来ている弁護士のガイドをしているそうで、僕の職業を聞くとその偶然に驚いていた。ちなみに、彼も酒好きと見えて「休憩中にビールを飲みに来た」ということだったが、彼も2500シムで購入していたので、どうやら日本人価格ということではないらしい。サマルカンドのように地ビールがないから少し料金が高いのだろうか。彼はさらにウオッカを7000シムで購入していたので、ここぞとばかりに僕も2本買うことにした。300円もしないのは安い。

 いろいろ話しているうちにおばさんに家の中に入るように勧められた。早稲田留学の彼に通訳してもらうと、なんでも「大臣が道の前を通るから」ということで大仰な話だ。そのうちおばさんの旦那さん、ご主人も帰って来て、早稲田の彼を交えていろいろと話をしていた。ご主人とおばさんは、さっきの息子について「ガイドを目指してるくせにろくに勉強しないで心配だ」とこぼしていた。母親の目を盗んでしょうもないことをやっている息子なので、先のことは言わずにおいたが、この心配が深刻であることには同感できた。僕が未婚で今のところ結婚の見込みもないことを知ると「うちの娘を娶れ」と、こちらは冗談として聞き流せる話だった。
 早稲田の彼はつまみにひまわりの種をおばさんから買ってきて僕に進めた。ひまわりの種は中国でもメジャーなおつまみだが、ここでの種は黒い筋がない、のっぺらぼうなものだった。味付けも中国のものより微妙に薄く、ひまわりの種に僕は中央アジアの遠くまでやってきたことを実感した。


親に心配をかけてばかりの息子さん。

 その日の晩御飯は宿のレストランで食べたが、隣でご飯を食べていたウズベク人が目ざとく僕のもっているウオッカを見つけ、例によってウオッカ一気が始まった。運転手数人で、「今日はブハラの宿から日本人を乗せてヒヴァまで来たんだ」ということを簡単な英語で言っていた。それ以上の深い会話はできないが、もはや僕らに会話は不要であった。

 ウズベク最終日は、ヒヴァからさらに西に向かい、ヌクスというまちからタシケントに飛ぶ予定だった。ヒヴァに程近いウルゲンチからもタシケントに飛行機が飛んでいるが、GWの日本人客が多いからかは分からないが満席で取れなかった。サマルカンドでネット経由でとれたのはヌクスからタシケントに向かう便だけだったのだ。
 サマルカンドの宿で一緒になった日本人と、ヒヴァでは部屋をシェアしていたが、彼は「消えゆくアラル海を見に行く」ということで、アラル海観光の起点となるヌクスに行くことから、旅は道連れ、ヌクスまで一緒に行くことになった。アラル海は、アムダリア川とシムダリア川というパミールを水源とする中央アジアの2大河川が流れこむ大きな湖だ。かつては琵琶湖の100倍という巨大な面積を誇っていたのが、ソ連の無計画な綿花栽培による灌漑によって、今やかつての面積の3割以下になってしまっており、20世紀最大の環境破壊といわれる。アムダリア川流域のヒヴァからヌクスにかけては基本的に緑ゆたかであったし、途中で渡ったアムダリア川は豊富な水量を誇っているように見えた。タクラマカン砂漠を縦断した時にタリム川を越えたが、今回は河面との距離が近かったせいかより迫力を感じた。


アムダリア川の迫力なはかなかだった。


 ウルゲンチから2時間ほどでヌクスに到着し、アラル海へ向かう彼と別れた僕は、空港まで向かう時間をつぶしに、バザールに向かった。カメラをぶら下げて歩いていると「写真撮って」と声をかけられるのは相変わらずだが、びっくりしたのは韓国系の顔立ちをした人が結構多いことをはじめ、ヒヴァよりも民族的に多彩な雰囲気であったことだ。例によってモンゴル系やロシア系の人もいるが、多彩な民族の人がごく自然に共存している。おそらく民族系列によるコミュニティなど存在しないのではないかと思う。改めてウズベクの持つ民族的おおらかさを感じたものであった。


ヌクスのバザールにて。ロシア系の顔立ちの人と、韓国系の顔立ちの人が並んでチーズのような乳製品を売っている。


 地図を見ると、サマルカンドからヌクスまでの距離と同じ程度をさらに西に進むと、優にカスピ海に到達できる。
 ―随分と遠くできたもんだ。
 そんな感慨を抱きながら、僕はマルシュルートカ(乗合タクシー)を捕まえて、空港へと向かった。

 空港で離陸までの時間を潰そうと売店にテーブルと椅子を付け足しただけの「カフェ」に足を踏み入れると、3人組のウズベク人と目があい、先方は直ぐに東洋人の僕に興味を持ったようで、英語で話しかけられた。彼らはタシケント在住で、アムダリア川で釣りを楽しむためにやってきたそうだ。英語が比較的得意な一人もうまく言葉が出てこないことが多いらしく、iphoneで単語を調べては話しかけていた。かれらはウオッカのコーラ割りをショットグラスであおっていたので、僕も勧められるままに杯を重ねた。彼らはややロシア系の顔立ちで、富裕層に入るのだろう。この旅でも、サマルカンドの普通の民家に入ったり、あまり裕福とは思えないレストランや売店の人、運転手の人とも飲み、あるいは語る機会があった。みんな気のいい人ではあったが、ウズベク人は「ウズベク人」として一括りにはできない。いろんな人に触れ合える旅はやっぱりいいもんだ。


ウオッカとコーラでほろ酔い?


 泥酔とはいわないが、およそほろ酔いとは遠い状態でタシケント行きの飛行機に乗り込んだ僕は、機内雑誌の路線図にある世界地図を眺めながら多分ひとりニヤニヤしていたはずだ。
 ―カシュガルからタシケントまではワープしているけど、上海から陸路で大分西まで来たもんだ。今度はヌクスからカスピ海を越えて東欧に行ってやろうか。それとも、途中下車した列車に乗ってサンクトペテルブルグまで行ってやろうか―
 思えば中国から中央アジアへの風景、文化の移りかわりは大分はっきりと見てきた気がする。今度は中央アジアからヨーロッパへの風景と文化の移り変わりを見てやろう。

 そう、まだ西へと向かう旅の途中。

 そう思いながら次の旅行へと思いをはせていると、疲れているはずなのに、タシケントからソウルに向かう長い飛行機の中でも、ソウルについてからもなかなか興奮で眠りにつくことができなかった。

                                   (ウズベク旅行記、了)

2013年5月3日金曜日

サマルカンド-きままなひとり旅

 ウズベキスタンのハイライトは、ブハラ、サマルカンド、ヒヴァの3つの世界遺産である。旅行者は大体一週間から10日くらいをかけてこの3都市を回ることになる。
 余談だが、僕にとっては意外だったのが、結構日本人旅行者が多かったことだ。タシケント空港で、ブハラで、サマルカンドで、ヒヴァで、ゴールデンウィークを利用して旅する個人旅行者やツアー客の日本人に出会った。そのせいで、日本に帰ってから、「ウズベキスタンって、すごく珍しいところに行ってきたね」という反応を受けることのほうが却って違和感を感じるようになったほどだ。
 さて、ツアー客であろうが、自由旅行であろうが、上記のとおり大体回る場所は決まっている。ある日本人は「ウズベクはバックパッカーもツアーも回るところは一緒だな」と言っていたが、全く同感である。
 ただ、好みの問題で、僕はきままなひとり旅が好きだ。どうもゾロゾロと集団でお決まりの観光地を回るのが好きでない。高校の修学旅行では能登と金沢に行ったが、自由行動の時に、我々の班だけ皆が行く兼六園になぜか足を向けず、あてもなくさまよったことがある。あてもなくさまよった挙句、みなが無計画な行動を後悔し始めたころ、偶然目の前に犀川の悠然とした流れが広がった時の感動が忘れられない。その経験があったからというわけではないが、予期しない何かを求めてなのか、何も考えずなのか、とにかく道をそれてみることがより好きになったのではないかと思う。

 サマルカンドは、ウズベキスタンに僕を駆り立てた直接の原因である。NHKのシルクロードで、サマルカンドのレギスタン広場の映像を見た時、「いつかいってみたい」と思ったのが今回の旅につながっている。実は、ブハラやヒヴァのことは全く知らず、今回の旅行前ににわか仕込みであれこれ知識を仕入れたのである。


サマルカンドのレギスタン広場。これは本当に素晴らしかった。


 だから、サマルカンドについた翌朝早朝、早起きして朝日を浴びるレギスタン広場に出た時はやはり感動した。実物のスケールの大きさに圧倒された。その後2日間の滞在期間中、レギスタン広場の前を通るたびについ足を止めて、時間ごとに変化するモスクの姿に見入っていた。ミナレットの上にも登ることができ、サマルカンドの点在するモスクたちを一望することができた。

 このようなサマルカンドの建造物たちは、それを目当てで来た僕を満足させるに十分だったが、それより心に残っているのは、現地の人との触れ合いである。あてもなく道をそれて見る旅は、やはりいい。

 各史跡を歩きまわったその日の晩、同宿の日本人と二人で夕食に行くと、宴会をやっていると思しきウズベク人がいて、「よし、合流しよう」という相方の提案により完全に合流してしまった。この地の宴会の例に漏れず、ウォッカを一気であおり、いろんな人が入り乱れて来て、訳がわからなくなってしまう。お酒が回ってくると、僕はウズベク人のおっさんと肩を組んで歌い出した。ウズベクの曲などまさかしらないので、ロシアの有名な民謡「カチューシャ」を歌ってみると、これは知っているようで、大いに盛り上がった。その後は、楽しかったが、少々ウオッカが効き過ぎたようで記憶が曖昧だ。気がついたら宿の自分のベッドで寝ていた。


ウオッカ一気で大盛り上がり


 目覚めたのはまだ早朝だったが、この日も早朝にレギスタン広場に向かった。しかし、前日に、早朝から夜までサマルカンドの主要な史跡をほぼ歩いて回ったせいで、10分でも歩くと、もう座りたくなる。だから、宿に戻ると昼までゲストハウスの居心地いい中庭でお茶を飲みながら休憩していた。ツアーだと歩いて回らなくてもよいから、こう疲れないと思うが、いずれにしてもこうして気ままにゆっくりできるのがひとり旅のいいところである。
 観光的な意味では十分満足していたので、疲労した体を押して歩く気にはならない。宿の情報ノートで、現地のイスラム式サウナが宿の裏手の旧市街内にあって、マッサージもしてくれるという情報を見た僕は現地文化に触れるべくそこを目指して宿を出た。

 宿の裏手は旧市街で、舗装されていない、迷路のような路地を行く。多少迷ってあっちやこっちやとウロウロしながらようやくサウナにたどり着くと、サウナの門は固く閉ざされていた。休業なのか、営業時間外なのか。まあ、別に構わなかった。誰に遠慮することもない、気ままなひとり旅である。
 
 それで、僕は適当に旧市街の裏路地を抜けながら、散歩しつつ宿にもどろうと、おおまかな方向感覚を頼りに旧市街を散策しだした。
 旧市街の路地裏は面白いことの宝庫だ。ウズベク人は好奇心の塊だから、下校途中の小学生や大人まで「何をしにきたの」「写真をとって」などとどんどん声をかけてくる。じゃれあっている小学生、子供をあやしつけるお母さんたちなど、まったく僕を退屈させることがなかった。

 そんな中、下校中と思しき中学生くらいの二人組の女の子に声を掛けられた。そのうち1人は片言だが英語を操る。片言でも英語を使えるウズベク人はとても少ないから、日本人でひとり旅をしていることなどを一緒に歩きながら話した。
 「じゃあね」と言われ、不意に二人はある家の扉を開けて中に入っていった。ふと開いた扉の中をみると、さながら集会のようにたくさんの人が何かをやっている風である。ほんの数秒だが、扉が開いているあいだ中を覗いてみると、一人のおばさんが手招きをする。そこで、ウズベク人に負けず劣らず好奇心旺盛な僕は、早速中に入ってみることにした。

 集会のようだ、と思ったのが間違いなのには、直ぐに気づいた。人数は20人くらいはいるが、どうやら家族らしい。後に路上であった英語の使える女の子に聞いた話では、ようするに曾祖父母以下の家族が全員、つまり従兄弟同士まで全員集まって暮らしているということだそうだ。
 つまりごく普通の民家だったということだ。入口を入ると、20畳くらいの広さの中庭があり、中庭の端に十数人は座れそうなダイニングテーブルがあって、ナンやお菓子、ナッツなどが置いてあった。
 ぼくは、直ぐにダイニングテーブルに腰掛けるように促され、お茶とお茶請けを勧められた。そして、例によって「写真を撮って」のリクエストにあい、それが一段落すると日本らしい富士山の写真などを見せて盛り上がったりした。
 そうこうしているうちに分かったのが、この家は従兄弟を含めた大家族で暮らしているということである。英語のできる女の子は大事そうに一家が写っている写真を取り出して僕に見せてくれた。いい忘れたが、僕が案内された家の中には、子供以外の男性は不在だった。彼女は、若い二人の男性の写真を見せて、彼らは空軍に勤めている、それで私たちは暮らしている、と教えてくれた。
 ちょっと理解できなかったのは、おじいさんに奥さんが何人いるか、である。英語のできる女の子、といっても片言も片言だったので、写真を指さして、「Grandfather girlfriend」という程度であった。Wifeというような語彙までは知らないらしい。写真のある一人を指さして、「Grandfather son.Another grandfather girlfriend」と言われた時は戸惑った。おそらくイスラムは一夫多妻制を認めているので、別の奥さんの子供だと理解したが、それ以上のことは分からなかった。
 とにかく大家族だった。おじいさんの兄弟は少なくとも5人くらいはいるようで、さらにその5人がそれぞれ結婚して子供を産み、一緒に暮らしているようである。まだ赤ん坊から中学生、高校生くらいの孫世代まで、10人くらいはいたような気がする。


門の中は中庭が広がっていて、その奥がテーブルだ。


 席についた英語のできる女の子から、ラグマンを食べるか、と勧められたので遠慮なくいただくことにした。
 しばらく写真を撮ったり、スマホの中に保存されている日本の写真を見せたり、いろんな話をしていた。が、僕がラグマンを食べ終わるころには盛り上がるネタも尽きたのか、みな各自の持ち場に戻っていった。
 まだ午後の4時くらいだったと思うが、家族は夕食の準備をしているようであった。よくあるきゅうりとトマトのサラダを作るために食材を洗って切っていたり、なにやら魔女の怪しげなドリンクのように大きな釜でスープのようなものを煮込んでいたりした。
 あまり長居してもしょうがないので、僕はお礼を言って外に出た。


ダイニングテーブル方向から見るとこうなる。怪しげな煮物を大きな棒でかき混ぜている。


 サマルカンドは本当に出会いの宝庫かもしれない。ブハラやヒヴァに比べても、街行く人に声を掛けられた回数は比較にならなかったと思う。民家を出たあとも旧市街で子供のやおばさんに声を掛けれられて写真を撮り、絨毯屋さんで日本で働いていた人と会って話し込んだり、下校途中の高校生に声を掛けられて大盛り上がりになったり、わずか数時間の間で目まぐるしかった。

 そうして、夕暮れ時も近づいてきたし、結局街歩きで足も痛くなってきたので宿に帰ってゆっくりしようと思っていたところ、不意に「ニーハオ」と、聞き慣れたような、この地には違和感のあるような挨拶を受けた。思わず「ニーハオ」と返すと、学生らしい若い男性3人組が満面の笑みで駆け寄ってきた。ここから先の会話は、北京語だ。
 彼らの北京語は大分たどたどしかったが、それでも十分意思疎通は可能だった。英語でも十分通じる場合は少なかったので、ウズベクで一番会話をしたのは彼らとだったろう。彼らはサマルカンド外国語大学の中国語学科の3年生だった。まだ中国に行ったことはないらしい。いつもレギスタン広場のあたりで中国人の観光客が来ないか探していて、中国語をしゃべるチャンスを待っているらしいが、中国人観光客はめったに来ることがないようである。たしかに、ウズベクでは中国人観光客を全く見かけなかった。だから、彼らはネイティブでないにせよ、北京語の話者である僕に出会って嬉しくてしょうがないようすだった。直ぐに、「僕達の寮に来てください。後輩に紹介したい」と誘われた。正直足が限界に近かったので「遠慮しとくよ」と言おうかと思ったが、彼らのキラキラした眼差しを見たらちょっと断る勇気がなくなってしまった。結局ついていった。

 5分くらい歩けばつくよ、と言われた彼らの寮には10分以上歩いてようやく到着したと思う。道中もいろいろ話をしたが、たまたまティムール像の前をとおりかかったときに、自慢げに「あの像はもう見た?」と聞かれたので、「聞いたところによると、ウズベクはティムール帝国を倒した人たちが作ったそうだ」と気になっている問題について聞こうとした。その後「何故あなた方は自分たちが倒した相手を英雄視しているのか」という質問が待ち構えていたのだが、ちょうどそのタイミングでホテルを探しているフランス人に道を聞かれたのだか、助けてあげたのだか、彼らがそっちにかかりきりになってしまい、続けての質問をする機会を失った。
 大学の寮の入口は管理人がいて、外部者は容易に入れないようになっているようだ。彼らが「友達だ」とでも説明してくれたのか、寮の入口にある改札機にも似たゲートのようなものを開けてもらって中に入った。
 寮は4人部屋で、学科は関係なく部屋が決まるらしい。テレビやDVD鑑賞用の部屋が何部屋かあって、テレビを見る学生で埋まっていた。調理室もあり、夕食の準備をする学生が忙しそうだった。調理は当番制だそうである。
 階ごとに男女が別れていて、彼らは男性と女性の中国語学科生に紹介すべく、上へ下へと僕を連れ回した。皆ここぞとばかりに中国語を話したかったらしく、いろんな話題で盛り上がって、写真を撮って、別れた。


これがテレビのある休憩室。学生にとっては憩いの場になるに違いない。


 観光を放棄して旧市街をぶらぶらすることも、まして民家に入り込むことも、学生の寮に招かれるのも、やはりきままなひとり旅ならではなんだと思う。だから、仮におんなじ世界遺産を巡るにしても、僕はやはり個人旅行、きままなひとり旅がいい。
 こうして僕はサマルカンドにちょっとだけ入り込めたような気もするし、あとで印象に残るのは観光地をめぐったことではなくて、いつでも現地の人との出会いだ。憧れのサマルカンドは、歴史的建造物だけでなくて、人の温かさでも僕の心にのこることになった。

学生たちと。みんな純粋で、好感が持てた。