2013年8月13日火曜日

パルヌ―ヨーロッパでは現地人と交流しにくいか

 僕がアジアや中国の辺境を好んで旅するのには理由がある。物価の安さというのもあるが、一番は現地人がフレンドリーだからだ。現地人のフレンドリーさでいえば、もうウズベキスタンの右に出る国はないだろう。数分あるけば一度は「ハロー」「こんにちは」と声を掛けられるし、「写真撮って」の攻撃も凄まじい。
 そうして記憶をたどってみると、例えば韓国人はフレンドリーだが、シャイである。漢民族は、もちろん到底一括りにできないのだけども、フレンドリーだし、韓国人ほどシャイじゃない。ウイグル人は民族性なのか、ウズベク人とほとんど同じだ。ベトナム人は、一ヶ月くらいかけて縦断したにもかかわらず、最後までよくわからなかった。なんだかこうしていろんな民族がどれくらいフレンドリーか考えだすと楽しいが、少数民族まで踏み込んで行くとそれだけで一記事できてしまいそうなので、これ以上は触れない。

 だから、ヨーロッパに来た時には、あまり現地人との触れ合いだとか、交流ということは考えていなかった。そしてもちろん、まちなかを歩いていても、呼び止められることなどは一切なかったのである。

 先にすこし横道にそれて、パルヌの話をしよう。もともとはパルヌの話のはずだから少し逆説的ではあるのだが。
 パルヌは、本当にちいさな港町だった。タリンの旧市街を歩いていると日本人もたまに見かけたが、ここではさすがに全く見かけない。また、本来はビーチリゾートとして有名な避暑地だそうだが、ここ数日全く気温が上がらないため、リゾート客でも賑わうことはなかった。

 しかし、私にとってパルヌは過ごしやすいまちであった。レストランを探すときにもともとガイドブックはあてにせず、現地人で賑わっているところに飛び込むのが僕のスタイルだが、あまりにも人がいない。それで、まだ味わっていないエストニア料理でも食べるかと、某ガイドブックに「毎日通っても飽きない」と大層な褒め言葉が記載されていたカドゥリという料理屋に入ることにした。
 まだ11時くらい、お昼前の時間だったので、朝食的なものと、スープしかないということだった。それでスープを頼んだのだが、これが絶品だったのだ。これは意地でもお昼時の料理も食べねばならぬと、昼時までまって、ゆでタンだかの料理を頼むと、またもや絶品である。この日、リガのまちに出発するのだが、意外にもバスが満席だということで、昼の2時くらいに散策を終わった僕は、早めの夕食もカドゥリで取ることになった。ついでに言っておくと、値段もせいぜい4、5ユーロくらいで安かったし、お店のおばちゃんは英語は今ひとつだったが間違いなく親切だった。

 もうひとつ、パルヌの点景を指摘するとすれば、意外にも五稜郭型の城塞都市だったということだ。中学生のころ従兄弟の留学していたドイツのミュンスターという都市に滞在したことがある。そこで、従兄弟の通っている大学を散策したところ、昔のお城だと説明を受けたこと、お堀の形が特色的でギザギザしていたことを微かに覚えていた。高校生になって五稜郭に行く機会があったが、五稜郭に「世界星形城郭サミット」のような案内が貼ってあり、なんとあのミュンスターが載っていたことは衝撃的だった。それで、当時調べてみると、星形城郭というのは17世紀あたりに様々な計算から、もっとも優れた城塞の形として流行したものということがわかった。僕は要塞マニアではないが、この話は衝撃的であったため、今でも覚えていたのだ。
 それで、パルヌのこじんまりした旧市街を歩いていると、大きな地図があり、ヒトデのような星形城郭の足のうち一本だけが残っているような部分が目についた。はやくも記憶が曖昧なのだが、まちの西はずれには旧城郭の堀が残っているという説明があったのではないかと思う。いずれにせよ、五稜郭での衝撃と同じ衝撃が僕に走り、記憶の深層に埋もれていたミュンスターと五稜郭の件が蘇ったのである。
 早速まちはずれに足を運んで見に行ったが、別段感動するというほどでもなかった。まあ、ヒトデの足一本しか残っていなかったのが原因かもしれないが、まあそれはいい。

 本題か横道かの区別がめちゃくちゃになってきたが、本題にもどって、ヨーロッパ人との交流の話である。

 話はパルヌ到着の夜に遡る。タリンを夕方6時くらいのバスで発った僕がパルヌにつくと、夜の9時を回っており、さすがに暮れるのが遅いバルトの夏でも薄暗くなっていた。前日、タリンにてインターネットで予約しておいたホテルに行くと、入口に鍵がかかっていて入れない。営業時間表示を見ると、どうやら営業時間が終わってしまっているようだった。困り果ててひと通りあたりをウロウロしてみるが、入口らしきものも見当たらない。電話番号が壁に書いてあったので、ほぼネット以外で使うことがなかった携帯電話で電話してみた。そうすると電話が通じて、要するに「もう営業時間が終わって帰ってしまったけど、あなたの部屋は101だ。入ったところにカギも置いてあるから、代金は明日払ってくれ」ということだった、「どうやって入口から入ればいいのか」と尋ねているところに中から人が出てきたので、慌てて便乗して中に入って、ようやく宿を確保することができた。

 ホテルの前はテラスのビアガーデンのようになっており、何も食べていない僕は食を求めてそのテラスに座った。ところが、なんと、もうフードの提供時間は終わったということで、空腹のままビールを一杯のんで、食を求める難民となった僕はまちをさまようことになった。
 バスターミナルの方に行くと、どうやら1軒のハンバーガー屋さんが営業しているらしい。僕はカウンターに駆け寄り、ハンバーガーを一つ注文した。

 エストニア人の二人と出会ったのはここだった。ハンバーガーが出来上がるのを待つ僕に、真夜中で誰もいないテラス席に二人座っていた二人と「どこから来た」「日本人だ」と会話したのが始まりだったとおもう。「まあとりあえず座れ」と言われるがままに僕は彼らの隣に座った。
 彼らはそれぞれ自分の名前を名乗ったが、もう忘れてしまった。記憶力の悪さには自信がある。僕は外国人に対して「Yujiro」なんて長ったらしい名前を言って覚えてもらえないことはよく知っているので「Yu」と名乗るようにしている。英語の二人称と少々紛らわしいが大体これで先方は覚えてくれる。

 彼らは僕より少し年上で、既に結婚もしており、ロシア系のエストニア人らしい。とりあえず、ピバ(=ビール)以外の僕の僅かなロシア語の知識を駆使して「ハラショー」と適当なところで相槌を打っておいた。これが結構ツボだったのか、二人は大受けだった。
 旅行か、何日くらいか、いつ日本に帰るのか等々この種の出来事の際に基本とも言える会話をすると、一人が「まあこれを飲め」といってペットボトルに入ったコーラを差し出した。もともとコーラはそんなに好きでないし、ましてぬるいコーラならなおさらのこと、しかも睡眠薬を入れられているかもしれないという問題もある。が、睡眠薬の件は、パルヌという田舎町で深夜駅前のハンバーガー屋に外国人観光客が入ってくるのを待ち構えていたとはさすがに思えなかったし、現にさっき彼らも飲んでいたのだ。他は我慢して、結局飲んでしまうことにした。
 ―ん?
 一口飲んで味が明らかにおかしかった。まさか睡眠薬か、まずいと一瞬思ったが二人は悪意なさそうに笑っている。そうだ、どこかで飲んだ味。おかしいと思ったのはアルコールが入っているからで、これはラムコークだ。そう気づくのに数秒ほどの時間しかかからなかった。「驚いたか。キャプテン・モルガンを入れてあるんだよ」と有名なラム酒の銘柄を挙げて種明かしをされた。その後は酒盛りとなり、一層打ち解けた。
 そうこうしていると、一人が「今奥さんは子どもを連れてアゼルバイジャンまで行ってるんだ。今僕たちはフリーなんだよ」と言い出す。もう一人がすかさず「これからの予定はどうなの。僕達はクラブに行って女の子をピックアップするよ」という。アヤシイ。そうして大いに飲ませておいて巻き上げるつもりに違いない。ここまで無警戒で付き合って来たからってなめてもらってはこまる。こう見えても百戦錬磨の海外旅行者さ―。
 と、思いながら「よし、行こう」と二つ返事というのは脚色が過ぎるかもしれないが、あっさりOKした。断っておくが女の子をピックアップしたいと思ったわけではないし、現にそうしてもいない。やっぱりエストニアの地元民とお酒を飲むというか、少しでも地元の生活に触れて見たかったのである。
 それでついて行くと、どうやら一軒目はまだ人が少ないらしくダメ、二軒目はローマ字で「KARAOKE」と書いてあるカラオケ・バーらしき外観のところだったが、それなりに賑わっているようで早速入っていった。1階だし、外に窓もついているので安全そうであもあった。カウンターで確か3ユーロだか、5ユーロくらいを入場料として払った気がする。あとはバーカウンターでキャッシュ・オン・デリバリーで購入するシステムらしい。
 それで、中に入って分かったが、クラブというよりは日本でいうと場末のスナックのような感じで、カウンターと幾つかのソファーがあり、正面にステージがあってカラオケを歌えるようになっている。とは言え客は思い思いの歌を歌って、踊っていたから雰囲気的には少しうるさくないクラブのようなものだろう。
 二人組は男女問わずいろんな人に声をかけていた。その中に休暇で一人でエストニアに来ているフィンランド人がいたので、さらに別の人に声をかけるのに忙しい彼らをそっちのけで少し話した。なんでもフィンランドにくらべてエストニアは大分物価が安く、夏休みにはこっちに来て遊んでいるということだった。日本のアニメも好きだという話で、映画「かもめ食堂」みたいだと一人おかしかった。
 そうして飲んで気分も良くなってくると、カラオケに挑戦する意欲が湧いてきた。もともとカラオケは大好きだし、人前で歌ったこともあるので、ここはひとつ客をあっと言わせてやろう。英語の曲は総数も少ないし、もともと知っている歌も少ないので、曲はあっさり決まった。
 ―When the night has come...
 入れたのは「Stand by me」。多少酔っ払っていたので勢いで入れたが、歌い出すと一瞬会場が、シン、と静まり返って踊っている人たちも踊りをストップしてしまったのでこっちが内心面食らった。静まり返ったのは10秒もなかっただろうか、また来客たちは思い思いに踊りだした。曲が盛り上がってきて最後の間奏に入ると、一人の女性が「一緒に歌っていい」と声をかけてくれた。もちろんOK。エストニアでの即興デュエットだ。曲が終わると、会場から、文字通り割れんばかりの拍手を浴びた。そもそも田舎の、ローカルなカラオケで日本人は珍しいだろうし、居合わせた客にとってはいわば異世界の人物が普通に慣れしたしんだ曲を歌ったのが新鮮だったのかと思う。すっかり気分がよくなってしまった僕は、さらにクラプトンの「Tears in heaven」を歌った。かなり会場の雰囲気が盛り上がってたところを少ししんみりさせてしまったが、やはり皆知っている曲だけに一緒になって歌ってくれたりして、一体感が心地よかった。

 席に戻ると、結局もともと僕を誘ったロシア系エストニア人の二人はどこかに行ってしまったかなにかで、見当たらなかった。ただ、僕とフィンランド人が座っているソファーにはいろんな客が乾杯に来てくれ、彼らがどうなったかも考える余裕もなかった。

 ヨーロッパ人よりもアジア人のほうがフレンドリーだ、というのは誤解だったかもしれない。結局は飛び込んでいくかどうかなのだ。

2013年8月12日月曜日

眼前にぱっと広がる旧市街―エストニア・タリン

 北京、フランクフルトと乗り継いで、現地時間でも深夜ゼロ時くらい、日本時間にすれば朝の6時くらいに、つまりは名古屋から丸々24時間ほどをかけて僕はタリン国際空港に降り立った。旧市街内にある宿にはあらかじめ到着時間を連絡してあったので、空港からタクシーで旧市街に乗り付けると、深夜ではあったが問題なくチェックインもできた。
 しかし、疲れているはずなのに、何故か眠れなかった。もともと頑固な不眠症に悩まされていて、普段は寝酒を飲んでいる。寝酒のビールでも買おうかと思ったが、バルト三国は大体深夜の酒類販売を禁じているので、それもできない。ようやく4時くらいにベットに潜り込んでウトウトしたが、6時には目が覚めてしまった。

 ウズベキスタンでもそうだったが、旧市街は昼間人でごった返している。だから、散策するなら人のすくない早朝が一番だ。早速僕は人気のまばらな旧市街に繰り出した。宿の裏の坂を登って行くと、ドイツの中世風のまちには似合わないロシア風の教会があった。どうやら、ソ連時代に建てられたものらしい。これにはやや引っかかったが、高台にある展望台から旧市街を一望できたのには、感動した。つい、昼にも、翌日の朝にもこの展望台には足を運んでしまった。
 それにしても、早朝の旧市街はひっそりしていた。観光客の姿はほとんど見かけず、掃除をしている職員らしき人、ランニングをする人などにたまに出くわすだけだ。ぼくは旧市街の風景を独り占めして、歩きまわった。
 それでも、6時くらいから1時間強歩きまわると、大体重要な部分はまわれたような感じだった。僕は8時からという宿の朝食を食べるために、宿に戻った。



早朝の旧市街はひっそりとしている。写真は旧市庁舎。



 朝食後は、携帯電話のカードを購入するのも兼ねて、旧市街からすこし外れたところにあるショッピングセンターに向かった。旧市街でないタリンのまちをどう表現したらよいのかは難しい。少なくとも高層ビルが林立するような都会ではないし、アジアのまちのように人とものでごった返すようなまちでもない。寂れているわけではなくて、活力は十分伝わってくるが、アジアのような強烈な混沌と活気があるわけでもない。
 電話カードは直ぐに購入することができた。店員さんは、流暢な英語を操り、「数日間、観光滞在のためにデータ通信ができるカードが欲しい」という僕のニーズに見合ったものを薦めてくれた。5ユーロ位だったと思うが、十分だった。
 ショッピングセンターは日本のイオンのようなものを想像してもらえば、そう大きく違わないと思う。電話カードはもちろん、服でも、インテリア用品でも、ものはあふれていた。スーパーのようになっている食品売場では、新鮮な肉や魚介類を売っていた。お酒の売り場にはなんと日本酒まで取り揃えられていた。僕は、多少物価が高い旧市街のレストランで外食することを避けるため、その日の夕食のために牛肉を二切れと玉ねぎなどの野菜、ビールとワインを購入した。これでも8ユーロくらいだったから、値段としては十分リーズナブルだ。


スーパーではなんと日本酒まで売られていた。


 買い物をすまして宿にもどり、翌日の予定をすこし考えた。タリンは居心地のいいまちだ。もう一泊する手もあるが、あまり日程の余裕もない。次はラトビアのリガを目指すのだが、タリンからは多少距離もあるし、リガとの中間点にある港町、パルヌを目指すことにする。翌日の夕方に出ればいいから、翌日の午前中は少し郊外に足を運ぶ余裕がある。ガイドブックの地図上に「サイクリング道路」という記載を見つけた僕は、「これだ」とばかりに近郊までサイクリングに出かけることにした。

 自転車は僕にとって羽根のようなものだ。普段から片道10km以上の道を通勤しているし、自転車で遠出することには何ら抵抗がない。なにかおもしろい路地やら、店やらを見つけたら、足の向くままに自転車を進めればよい。タリンでもっとも印象に残ったのは、やっぱりこの気ままな自転車の旅だったかもしれない。

 翌日、レンタサイクルで僕は例のサイクリング道路を通って、近郊の港町、ピリタに向かった。海沿いのサイクリング道路は、サイクリングする地元民や観光客で賑わっていた。残念ながら、バルト海はコバルトブルーの美しい海ではなかったが、湾上を行き交う船にタリンの港町としての重要性を感じることができた。なるほど、ハンザ同盟の都市として栄えたのも納得ができる。北欧と、ロシア方面との物流の中心になったわけである。

 ピリタにはビーチがあるが、おりからの低温で、残念ながら水着のエストニア美女はいなかった。僕は足の向くまま、釣り人が竿を垂れている防波堤の先っぽに足を向けた。

 そうして気づいたのは、海の向こうに巨大な教会の時計塔をそびえ立たせる、タリンの旧市街の姿だった。旧市街自体やや高台になっており、昔の王城があった地域は展望台があるくらいで、旧市街の中でも小高い地域になっている。このため、海から映画のような旧市街の姿が一望できたのだ。感動した。
 その後、急な土砂降りにあって、雨宿りする場所を見つけるまでにびしょ濡れになってしまった。しかし、そんなことを全く後悔させないほど、海からみた旧市街の風景は雄大だった。

 海岸沿いのサイクリング道路を通って帰路につくと、行きにはわからなかったがここからも海に浮かぶような旧市街の風景をもっとはっきり見ることができることに気づいた。行きと帰りで全く見えるものは違うのだ。前に突き進むだけではなく、時に振り返ってみることも大事だな、という陳腐な言葉をふと思い出した。


この海に浮かぶような旧市街の風景は素晴らしかった。


 そうして見事な風景を眺めながら旧市街に近づいてくると、旧市街から少し離れたところにいくつかの高層ビルがあることに気づいた。「あそこに行けば、高いところから旧市街を一望できるかもしれない」。僕が行きとは違う道を選んで、のっぽなビルのふもとまで向かったことは言うまでもない。

 最初に、ツインタワーになっている一番高いと思われるビルに辿り着いた。まずオフィスのようになっているビルに登ろうとすると、5、6階以上はうえに行くことができない。下に降りて周囲を見ると、高層階オフィス用の入口では警備員が身分証のチェックをしていて、勝手には中に入れないらしい。
 そこで、もう一つの、タリンでもっとも高級らしい、スイソテルというホテルになっているビルに登ろうと試みた。が、セキュリテイ上部屋のカギを差し込まないと該当階には行けないらしく、諦めてエレベーターを降りようとしたところ、ちょうど最上階に行く客が乗り込んで来たので、シメシメと同上することにした。
 最上階の大きな窓からは、まず大きな湖と、僕が到着したタリン空港が目に入った。湖をバックに飛び立つ航空機の姿も見ることができ、よい眺めだった。しかし旧市街はちょうど逆方向である。僕は廊下を逆方向に進んで、期待を胸にしながら反対側の窓に向かった。しかし、残念ながら目に入ったのはツインタワーの片割れの無機質な窓だけであった。ちょうど旧市街側の眺望をもう一つの棟が邪魔しているのだ。「これじゃあ超高級ホテルも片手落ちだ」と余計なことを考えたが、それにしても何でわざわざ旧市街の眺望を塞ぐようなビルの建て方をしたのか、謎のままだ。
 しかし、転んでもタダで起きない僕は、ツインタワーの片割れの向こうにスイソテルほどの高さはないが、そこそこの高さがあるラディソンホテルを発見した。ラディソンの向こうには視界を遮るような建物はない。


もちろん、この風景も悪くなかった。


 慌てて1階におりて、自転車を飛ばしてラディソンホテルに向かった。別に景色は逃げるわけではないが。
 ラディソンホテルのエレベーターは難なく最上階へと僕を連れて行ってくれた。最上階はバーになっていて、宿泊客以外でも自由に利用できるのだ。エレベーターを出てバーに入ると、大きいガラス張りになっていて、なんとテラス席まである。逸る気持ちを抑えきれずに、席に案内されるのをまたずに僕はテラスに出てみた。
 最高の風景だった。旧市街をすっぽり眼下に納めることができたのだから。海越しにみたタリンの旧市街は雄大だが、少し遠すぎる。逆に、旧市街内の教会の時計塔から眺めると眺めは良いが近すぎるし、全貌を見渡すことができない。しかし、このテラスからは僕からすれば、近すぎず遠すぎず、完璧な旧市街を眺めることができたのだ。


テラスからの旧市街の眺め。言葉を失った。


 長時間のサイクリングや雨に降られた疲労を忘れ、僕は1時間以上は、眺めに見入りつつビールを飲み干した。

 タリンは本当に美しいまちだった。あてもなくさまよったわけではないのだが、何故だか、高校の修学旅行での金沢で、にわかに眼前に犀川の絶景が開けた時のことを思い出した。

2013年8月10日土曜日

ヨーロッパの歴史はわかりくいからバルト三国へ―

 はじめてバルト三国に行きたいと思ったのはいつのことだったか。なぜバルト三国だったか。もう忘れてしまった。ともかくも次にヨーロッパに行くならバルト三国だと数年来考えていた。

 ヨーロッパの歴史はわかりにくい。というか、少なくとも私にとってはどこか実感を持ちにくい。そこに生きた人々の息遣いというか、生々しい様子がピンとこない。子どものころから史記やら三国志が好きだったせいか、中国の歴史などはなにやら人ごとには思えないのだが。

 中世あたりは特にそうだ。
 世界史の教科書的にいうと、ヨーロッパの黎明はギリシャの都市国家から始まり、つづいてローマが起こり、ケルト人を大陸から追いやった。4世紀にゲルマン民族が侵入を開始し、以後、一時期ノルマン人やイスラム勢力の支配があったことを除けば、西欧は基本的にラテン(=ローマ系)とアングロサクソンを含むゲルマン系の2つの民族が主要な地位を占めているはずである。
 ところで、カール大帝のもとで大王国となったフランク王国がベルダン・メンセンの各条約で3つに分かれ、これが現在のドイツ・フランス・イタリアの原型となったと昔習った。ここが一番ピンとこない。ドイツはゲルマン系、フランス・イタリアはラテン系ではなかったか。フランク王国は、言語や民族的には複層的な地域を統治していて、分裂後は言語・民族にほぼ従った国家の枠組みができたのだろうか。だとすればフランク王国の分裂が3国の原型となったと評するのは的を得ていないのではなかろうか。

 イギリス、フランス、スペインというのは比較的早期に王朝が成立しているからまだなんとなく国家の枠組みはわかる。しかし、ドイツとイタリアは統一が19世紀末だから、言語的・民族的にどのようにアイデンティティを持っていたのか、あるいはそもそもそのようなアイデンティティなど存在しなかったのか、一層わかりにくい。たとえば、神聖ローマ帝国の下のドイツは、連邦国家で各領主の自治性がかなり高かったであろうことは想像がつく。ただその分、一応民族や言語によるアイデンティティみたいなものはあったのかがわかりにくいのである。
 リューベックを中心とするハンザ同盟という存在もそうだ。私は勝手に戦国時代の堺のような都市の集合体のように思っているが、ほんとうのことはわからない。さらに、歴史の教科書にはドイツ騎士団領というのも出てきたが、こちらはもっと具体的なイメージの持ちようがなく、お手上げだった。

 さて、バルト三国の話である。ハンザ同盟がはるかバルト三国まで広がっていることは高校の世界史の知識で知っていた。また、中学校の地理でおもしろ半分にすべての国の首都を覚えようというのを友人とやっていたので、独立したてのバルト三国の名称と首都は知っていた。私がもともとバルト三国について知っていたのは、ソ連崩壊に先立ちいち早くこれらの国が独立したことと、第2次世界大戦中のリトアニアで杉原千畝が大量のビザを発行することで多くのユダヤ人を救ったことに加えると、その程度だった。

 もともとどちらかというと観光地然としている場所は苦手な性格だ。今年(2013年)のゴールデンウィークに訪れたウズベキスタンは立派な観光地だったが、それでも多くの友人には「それってどこ」などと驚かれた。中国広西省でトン族の田舎を訪ね歩いたのは間違いなく僕の性格が現れている。
 そういうわけで、ヨーロッパに行くなら西欧は避けようとなんとなく考えており、かすかなバルト三国に対する知識をもとに、旅行先として適するかどうか調べたのだと思う。そうすると、エストニアのタリンやラトビアのリーガはハンザ同盟時代の中世の街並みをきれいにとどめていることを知った。
 そしてさらに思ったのが、これらの国を訪れればハンザ同盟を通じてわかりにくい中世ドイツが理解できるのではないかということである。それで例によって早速バルト三国の歴史を調べ始めると、いろいろ興味深いことがわかってきた。


タリンの城壁。中世ドイツの都市らしい。


 バルト三国はエストニア、ラトビア、リトアニアの3国であるが、意外なことにエストニアと他の2国の間に言語・民族的な共通性はないのである。エストニアはもともとウラル語族系で、実はフィンランドも同様である。東欧では他にハンガリーも同様だ。つまり、同じウラル語族系のチュルク語族とは親戚関係にある。これは5月に訪れたウズベキスタンとの奇妙な縁を感じた。さらにいうと、ウラル=アルタイ語族説を採るとすれば、日本語とは遠い親戚関係にあるのがエストニア語ということになる。
 ラトビアとリトアニアはともにインド=ヨーロッパ語族の一派であるバルト語派に属する。ただ、リトアニアは中世においてポーランドと共同し、ラトビアはリヴォニア騎士団領としてエストニアと運命をともにすることとなった。

 さて、リヴォニア騎士団の名前が出てきたところで、いよいよドイツ騎士団領について触れなければならない。
 唐突だが、ごく大雑把にいえば、中世ヨーロッパを読み解くカギは、3種の利権でないかと思う。すなわち、交易の利権、教会の利権、略奪の利権(というのはややおかしいが)である。中世で儲ける手段を考えるとすれば、貿易などの商業取引をすること、教会の権威をもって住民から利益を得ること、さらに手っ取り早く略奪すること3つの手段があるということだ。中世のまちが高い城壁をもって要塞化しているのは広い意味での略奪、他の都市からの攻撃を防ぐためであろう。教会の利権については宗教改革のネタになった免罪符などを考えれば容易に想像がつくし、そういえば習ったところの叙任権闘争ではローマ皇帝と教皇が利権をめぐって争っていたのだ。十字軍は「異教徒征伐」や「聖地奪還」に名をかりた略奪の側面があったし、またジェノバの商人が商売敵であるコンスタンティノープルの商人に打撃を与えるために利用したことなどを考えればわかる。

 ドイツ騎士団も、要するに交易と略奪の利権のために存在した存在なのだろう。もともとのスポンサーは後にハンザ同盟を構成するブレーメンやリューベックの貿易商で、十字軍に赴くドイツ人兵士を資金的に援助したのが始まりらしい。つまり、貿易商らは異教徒征伐に名を借りて東方との交易上の利権を確保しようとおもったのだろう。そのドイツ人兵団が発展してドイツ騎士団となるのだが、彼らは彼らで領土的な利権を含む広い意味での略奪を同じように考えたのであろう。
 ドイツ騎士団は最初パレスチナに利権を見出そうとするが、イスラム勢力に押されてハンガリー王国を軍事的に助けて利権を確保しようとするが失敗、そして今度はバルト海沿岸地域、プロシア(今のロシアの飛び地になっているカリーニングラード州あたり)に目をつけて成功したというのが大まかな話だ。別にこれもドイツ人のリヴォニア騎士団というのが先立ってラトビアあたりで「異教徒征伐」の名のもとに征服を行っていたのを吸収して、プロシアからバルト三国にまたがる広大な版図を得たということだ。なお、エストニアは先にデンマークが征服していたが、リヴォニア騎士団が買い受けている。


リーガの街並みもどこがドイツ的ではないだろうか。


 話を補完してまとめつつさらにその後を追うと、次のようである。後のエストニア、ラトビア、エストニアを構成する民族は紀元前にはバルト海沿岸地域に存在したが独自の国家を持たず、まずエストニアはデンマークに征服され、三国ともども後にドイツ騎士団に征服ないし買収されたのであり、これが14世紀ぐらいまでのことである。ただ、ほぼ同時にリトアニアはドイツ騎士団の支配を廃してリトアニア大公国を作り、ポーランドと同君連合としてポーランド化の道をたどることになる。
 バルト三国はリトアニアを除き各国の侵略にさらされることになる。スウェーデン、ロシア、そしてポーランドー=リトアニアとドイツ騎士団がバルト海沿岸の覇権をめぐって争ったのがリヴォニア戦争(16世紀後半)で、結果エストニアとラトビア北部はスウェーデンの支配下に、ドイツ騎士団は解体してリヴォニア公国となり実質的にポーランド=リトアニアの支配下に置かれる。
 18世紀にはロシアが台頭し、数度にポーランド分割が行われるなどし、バルト海沿岸はロシアの支配を受けるようになった。結局バルト3国が独立を宣言したのは第一次世界大戦後である。しかし、第二次世界大戦後は事実上ソ連の支配下に置かれることになる。そこから再独立したのが1991年で、当時まだ私は小学生だったが、ベルリンの壁崩壊、バルト三国の独立、ソ連の崩壊と世界が大きく動いたことは、その意味は十分理解できていなくても覚えている。

 さて、ドイツ騎士団支配下のタリン(エストニア)、リーガ(ラトビア)はハンザ同盟に加盟し、大いに発展する。旧市街は基本的にこの時代のもので、要するにドイツなのである。リトアニアだけは独立国家であったから、首都のヴィリニュスは趣を別にするが、詳細はヴィリニュスの項で触れる。


ヴィリニュスの街並みは他の2首都とどこか違う。


 別に現にバルト三国を訪れてヨーロッパの歴史が自然に頭に入ってくるわけではない。が、こうしてあれやこれやと調べているうちに、やはりバルト三国のみならずヨーロッパ全体の歴史が少しはクリアになったつもりでいる。

2013年5月5日日曜日

まだ旅の途中―ヒヴァ、ヌクス

 しょうもないこだわりだと思うが、旅先の現地移動にはなるべく飛行機を使わないようにしている。その一つの理由は、飛行機だといかにもどこでもドアでワープしたかのように、距離感がわからないということだ。もう一つは、風景、つまりは地形や植生といった自然や、建物などの文化の変化を見たい、要するに電車やバスの車窓からの風景が好きなのだ。


ゴビを過ぎると車窓には少し緑が目に入ってくる。

  変化を見たい、という意味では半分は目的を果たせていないが、距離感はつかめた。僕はサマルカンドから夜行列車にのって、ウズベク西方の古都ヒヴァへの入口にあたるウルゲンチに向かった。
 サマルカンドを夜の12時前に出た列車は、明るくなるとウズベク中央部の砂漠をひた走っていた。
 ゴビだ―
 まるで新疆の旅の続きのような風景を、久々にみた。ゴビとは、岩でできた砂漠をさす一般名詞だと思っていただければよい。「ゴビ砂漠」はそれが固有名詞化したものだ。いわゆる砂漠に、日本人が普通イメージするような砂漠は少ない。世界中の砂漠のうち大多数がゴビであるはずだ。
 ウズベクは意外に緑豊かだとこの風景を見るまでは思っていた。ナヴォーイからブハラに向かう時も、ブハラからサマルカンドに向かう時も基本的に緑はつねに目に入っていたような気がする。だから、ウルゲンチにほど近くなるまでに見た茫漠たるゴビは私にとって新鮮だった。
 妙に懐かしい気持ちで、普通だったら退屈してすぐに飽きるはずの景色に、僕はなんとなくずっと見入っていた。外に見えるゴビは一緒のようで、祁連山脈が見えたりする甘粛省のものとは、あるいは主にバスから見た新疆のものとはまた少し違うようにも思えた。旅は続いている。同じようで中央アジアの風景は少しづつ変わり行くのだ。

 ウルゲンチ駅を降りると、すぐにヒヴァ行きの乗合タクシーが見つかった。ものの30分、ゴビのようでやや緑の多い道をぶっ飛ばして、タクシーはヒヴァの町についた。

 ヒヴァのまちは、これまで見てきたシルクロードのいかなるまちとも違う趣きだった。なにせ、四方を完璧に城壁が囲んでいるのである。これは、様式は違えど、中国の襄陽とか、荊州のイメージに近かった。思えばシルクロードではじめて本格的なモスクを見たのは、新疆のクチャだったか。いや、トルファンで蘇公塔というりっぱなミナレットを見ている。その後、カシュガルで、ブハラで、サマルカンドでいろんなモスクを見てきたが、思えば徐々に違ってきている。クチャでは、モスクは女人禁制が徹底され、ガイドしてくれたウイグル人女性は中に入らなかった。ウズベクではそういう厳格さはなく、女性も自由に、観光客も現地人もモスク内に立ち入っていたと思う。新疆では、顔を描いた仏教の壁画はその部分が削り取られていたが、ブハラやサマルカンドでは逆にモスクに禁止されているはずの顔が描かれていたものがあった。サマルカンドのモスクでは特に青が強調されていたが、ヒヴァのモスクは青い部分もあるが、基本的に土気色の茶色い世界だった。


ヒヴァの城内はまさに中世イスラムのまちという趣だ。様々な民族が行き交う。


 なんだか遠くに来たものだ―
 そういう感慨は実はまちを離れるころに感じたもので、真新しいタイプのまちを僕はウキウキしながら歩きまわった。
 ヒヴァは、中世イスラムのまちというに本当にふさわしい。ブハラもかなり雰囲気のあるまちだが、城壁がないだけにやや中世を感じにくかった気がする。それに、ヒヴァのまちを歩く人はアラビア風ターバンを巻いた人、インド系の顔立ちの人、金髪碧眼のスラブ人、モンゴル人ぽい顔立ちの人とこれまでのどのまちよりも多彩だった。交易で賑わう中世のまちというのはこのような感じだったのかもしれない。

 ヒヴァのまちは小さい。到着した日の午後にひと通り回ってしまうと、あとはそれほど見る場所はなかった。翌日は丸一日あるが、例によって人の少ない日の出ころの城内をまわると、することもなく、ビールとともに食事を楽しんでゆっくりしていた。
 ヒヴァではビールの相場がよく分からなかった。本来500CCの瓶を1本1500シム(50円強)で買えるはずなのだが、2500シム(100円弱)以下はどこの店でも下がらない。これは城壁内の観光地価格ではないかと思い、宿と城壁から程近い、地元の客で賑わっている売店ならどうかと思って値段を聞いてみた。
 残念ながら値段はやはり2500シム以下には下がらなかった。諦めて購入すると、客のうち一人が「座って飲んで行け」といっているらしい。もちろんそうすることにした。
 客の一人と思っていたのは、店のおばさんでの息子らしかった。彼は27歳だが、ガイドを目指して学校に通っているらしい。しきりにおばさんから「いい機会だから英語で話せ」と促されているようだったが、正直英語のレベルはイマイチで意思疎通にはかなり困難を伴った。それよりも、おばさんの目が離れると、どこで手に入れたのか、携帯電話に保存してある日本のアダルトビデオの動画を見せて来たりと、まあ、正直、先が多少心配な様子な彼なのであった。

 そうしたところ、不意に、一人のウズベク人の客に流暢な日本語で話しかけられた。なんと、早稲田大学に留学していたことがあり、今はウズベクに戻ってガイドの仕事をしているそうだ。たまたま東京近郊から夫婦で来ている弁護士のガイドをしているそうで、僕の職業を聞くとその偶然に驚いていた。ちなみに、彼も酒好きと見えて「休憩中にビールを飲みに来た」ということだったが、彼も2500シムで購入していたので、どうやら日本人価格ということではないらしい。サマルカンドのように地ビールがないから少し料金が高いのだろうか。彼はさらにウオッカを7000シムで購入していたので、ここぞとばかりに僕も2本買うことにした。300円もしないのは安い。

 いろいろ話しているうちにおばさんに家の中に入るように勧められた。早稲田留学の彼に通訳してもらうと、なんでも「大臣が道の前を通るから」ということで大仰な話だ。そのうちおばさんの旦那さん、ご主人も帰って来て、早稲田の彼を交えていろいろと話をしていた。ご主人とおばさんは、さっきの息子について「ガイドを目指してるくせにろくに勉強しないで心配だ」とこぼしていた。母親の目を盗んでしょうもないことをやっている息子なので、先のことは言わずにおいたが、この心配が深刻であることには同感できた。僕が未婚で今のところ結婚の見込みもないことを知ると「うちの娘を娶れ」と、こちらは冗談として聞き流せる話だった。
 早稲田の彼はつまみにひまわりの種をおばさんから買ってきて僕に進めた。ひまわりの種は中国でもメジャーなおつまみだが、ここでの種は黒い筋がない、のっぺらぼうなものだった。味付けも中国のものより微妙に薄く、ひまわりの種に僕は中央アジアの遠くまでやってきたことを実感した。


親に心配をかけてばかりの息子さん。

 その日の晩御飯は宿のレストランで食べたが、隣でご飯を食べていたウズベク人が目ざとく僕のもっているウオッカを見つけ、例によってウオッカ一気が始まった。運転手数人で、「今日はブハラの宿から日本人を乗せてヒヴァまで来たんだ」ということを簡単な英語で言っていた。それ以上の深い会話はできないが、もはや僕らに会話は不要であった。

 ウズベク最終日は、ヒヴァからさらに西に向かい、ヌクスというまちからタシケントに飛ぶ予定だった。ヒヴァに程近いウルゲンチからもタシケントに飛行機が飛んでいるが、GWの日本人客が多いからかは分からないが満席で取れなかった。サマルカンドでネット経由でとれたのはヌクスからタシケントに向かう便だけだったのだ。
 サマルカンドの宿で一緒になった日本人と、ヒヴァでは部屋をシェアしていたが、彼は「消えゆくアラル海を見に行く」ということで、アラル海観光の起点となるヌクスに行くことから、旅は道連れ、ヌクスまで一緒に行くことになった。アラル海は、アムダリア川とシムダリア川というパミールを水源とする中央アジアの2大河川が流れこむ大きな湖だ。かつては琵琶湖の100倍という巨大な面積を誇っていたのが、ソ連の無計画な綿花栽培による灌漑によって、今やかつての面積の3割以下になってしまっており、20世紀最大の環境破壊といわれる。アムダリア川流域のヒヴァからヌクスにかけては基本的に緑ゆたかであったし、途中で渡ったアムダリア川は豊富な水量を誇っているように見えた。タクラマカン砂漠を縦断した時にタリム川を越えたが、今回は河面との距離が近かったせいかより迫力を感じた。


アムダリア川の迫力なはかなかだった。


 ウルゲンチから2時間ほどでヌクスに到着し、アラル海へ向かう彼と別れた僕は、空港まで向かう時間をつぶしに、バザールに向かった。カメラをぶら下げて歩いていると「写真撮って」と声をかけられるのは相変わらずだが、びっくりしたのは韓国系の顔立ちをした人が結構多いことをはじめ、ヒヴァよりも民族的に多彩な雰囲気であったことだ。例によってモンゴル系やロシア系の人もいるが、多彩な民族の人がごく自然に共存している。おそらく民族系列によるコミュニティなど存在しないのではないかと思う。改めてウズベクの持つ民族的おおらかさを感じたものであった。


ヌクスのバザールにて。ロシア系の顔立ちの人と、韓国系の顔立ちの人が並んでチーズのような乳製品を売っている。


 地図を見ると、サマルカンドからヌクスまでの距離と同じ程度をさらに西に進むと、優にカスピ海に到達できる。
 ―随分と遠くできたもんだ。
 そんな感慨を抱きながら、僕はマルシュルートカ(乗合タクシー)を捕まえて、空港へと向かった。

 空港で離陸までの時間を潰そうと売店にテーブルと椅子を付け足しただけの「カフェ」に足を踏み入れると、3人組のウズベク人と目があい、先方は直ぐに東洋人の僕に興味を持ったようで、英語で話しかけられた。彼らはタシケント在住で、アムダリア川で釣りを楽しむためにやってきたそうだ。英語が比較的得意な一人もうまく言葉が出てこないことが多いらしく、iphoneで単語を調べては話しかけていた。かれらはウオッカのコーラ割りをショットグラスであおっていたので、僕も勧められるままに杯を重ねた。彼らはややロシア系の顔立ちで、富裕層に入るのだろう。この旅でも、サマルカンドの普通の民家に入ったり、あまり裕福とは思えないレストランや売店の人、運転手の人とも飲み、あるいは語る機会があった。みんな気のいい人ではあったが、ウズベク人は「ウズベク人」として一括りにはできない。いろんな人に触れ合える旅はやっぱりいいもんだ。


ウオッカとコーラでほろ酔い?


 泥酔とはいわないが、およそほろ酔いとは遠い状態でタシケント行きの飛行機に乗り込んだ僕は、機内雑誌の路線図にある世界地図を眺めながら多分ひとりニヤニヤしていたはずだ。
 ―カシュガルからタシケントまではワープしているけど、上海から陸路で大分西まで来たもんだ。今度はヌクスからカスピ海を越えて東欧に行ってやろうか。それとも、途中下車した列車に乗ってサンクトペテルブルグまで行ってやろうか―
 思えば中国から中央アジアへの風景、文化の移りかわりは大分はっきりと見てきた気がする。今度は中央アジアからヨーロッパへの風景と文化の移り変わりを見てやろう。

 そう、まだ西へと向かう旅の途中。

 そう思いながら次の旅行へと思いをはせていると、疲れているはずなのに、タシケントからソウルに向かう長い飛行機の中でも、ソウルについてからもなかなか興奮で眠りにつくことができなかった。

                                   (ウズベク旅行記、了)

2013年5月3日金曜日

サマルカンド-きままなひとり旅

 ウズベキスタンのハイライトは、ブハラ、サマルカンド、ヒヴァの3つの世界遺産である。旅行者は大体一週間から10日くらいをかけてこの3都市を回ることになる。
 余談だが、僕にとっては意外だったのが、結構日本人旅行者が多かったことだ。タシケント空港で、ブハラで、サマルカンドで、ヒヴァで、ゴールデンウィークを利用して旅する個人旅行者やツアー客の日本人に出会った。そのせいで、日本に帰ってから、「ウズベキスタンって、すごく珍しいところに行ってきたね」という反応を受けることのほうが却って違和感を感じるようになったほどだ。
 さて、ツアー客であろうが、自由旅行であろうが、上記のとおり大体回る場所は決まっている。ある日本人は「ウズベクはバックパッカーもツアーも回るところは一緒だな」と言っていたが、全く同感である。
 ただ、好みの問題で、僕はきままなひとり旅が好きだ。どうもゾロゾロと集団でお決まりの観光地を回るのが好きでない。高校の修学旅行では能登と金沢に行ったが、自由行動の時に、我々の班だけ皆が行く兼六園になぜか足を向けず、あてもなくさまよったことがある。あてもなくさまよった挙句、みなが無計画な行動を後悔し始めたころ、偶然目の前に犀川の悠然とした流れが広がった時の感動が忘れられない。その経験があったからというわけではないが、予期しない何かを求めてなのか、何も考えずなのか、とにかく道をそれてみることがより好きになったのではないかと思う。

 サマルカンドは、ウズベキスタンに僕を駆り立てた直接の原因である。NHKのシルクロードで、サマルカンドのレギスタン広場の映像を見た時、「いつかいってみたい」と思ったのが今回の旅につながっている。実は、ブハラやヒヴァのことは全く知らず、今回の旅行前ににわか仕込みであれこれ知識を仕入れたのである。


サマルカンドのレギスタン広場。これは本当に素晴らしかった。


 だから、サマルカンドについた翌朝早朝、早起きして朝日を浴びるレギスタン広場に出た時はやはり感動した。実物のスケールの大きさに圧倒された。その後2日間の滞在期間中、レギスタン広場の前を通るたびについ足を止めて、時間ごとに変化するモスクの姿に見入っていた。ミナレットの上にも登ることができ、サマルカンドの点在するモスクたちを一望することができた。

 このようなサマルカンドの建造物たちは、それを目当てで来た僕を満足させるに十分だったが、それより心に残っているのは、現地の人との触れ合いである。あてもなく道をそれて見る旅は、やはりいい。

 各史跡を歩きまわったその日の晩、同宿の日本人と二人で夕食に行くと、宴会をやっていると思しきウズベク人がいて、「よし、合流しよう」という相方の提案により完全に合流してしまった。この地の宴会の例に漏れず、ウォッカを一気であおり、いろんな人が入り乱れて来て、訳がわからなくなってしまう。お酒が回ってくると、僕はウズベク人のおっさんと肩を組んで歌い出した。ウズベクの曲などまさかしらないので、ロシアの有名な民謡「カチューシャ」を歌ってみると、これは知っているようで、大いに盛り上がった。その後は、楽しかったが、少々ウオッカが効き過ぎたようで記憶が曖昧だ。気がついたら宿の自分のベッドで寝ていた。


ウオッカ一気で大盛り上がり


 目覚めたのはまだ早朝だったが、この日も早朝にレギスタン広場に向かった。しかし、前日に、早朝から夜までサマルカンドの主要な史跡をほぼ歩いて回ったせいで、10分でも歩くと、もう座りたくなる。だから、宿に戻ると昼までゲストハウスの居心地いい中庭でお茶を飲みながら休憩していた。ツアーだと歩いて回らなくてもよいから、こう疲れないと思うが、いずれにしてもこうして気ままにゆっくりできるのがひとり旅のいいところである。
 観光的な意味では十分満足していたので、疲労した体を押して歩く気にはならない。宿の情報ノートで、現地のイスラム式サウナが宿の裏手の旧市街内にあって、マッサージもしてくれるという情報を見た僕は現地文化に触れるべくそこを目指して宿を出た。

 宿の裏手は旧市街で、舗装されていない、迷路のような路地を行く。多少迷ってあっちやこっちやとウロウロしながらようやくサウナにたどり着くと、サウナの門は固く閉ざされていた。休業なのか、営業時間外なのか。まあ、別に構わなかった。誰に遠慮することもない、気ままなひとり旅である。
 
 それで、僕は適当に旧市街の裏路地を抜けながら、散歩しつつ宿にもどろうと、おおまかな方向感覚を頼りに旧市街を散策しだした。
 旧市街の路地裏は面白いことの宝庫だ。ウズベク人は好奇心の塊だから、下校途中の小学生や大人まで「何をしにきたの」「写真をとって」などとどんどん声をかけてくる。じゃれあっている小学生、子供をあやしつけるお母さんたちなど、まったく僕を退屈させることがなかった。

 そんな中、下校中と思しき中学生くらいの二人組の女の子に声を掛けられた。そのうち1人は片言だが英語を操る。片言でも英語を使えるウズベク人はとても少ないから、日本人でひとり旅をしていることなどを一緒に歩きながら話した。
 「じゃあね」と言われ、不意に二人はある家の扉を開けて中に入っていった。ふと開いた扉の中をみると、さながら集会のようにたくさんの人が何かをやっている風である。ほんの数秒だが、扉が開いているあいだ中を覗いてみると、一人のおばさんが手招きをする。そこで、ウズベク人に負けず劣らず好奇心旺盛な僕は、早速中に入ってみることにした。

 集会のようだ、と思ったのが間違いなのには、直ぐに気づいた。人数は20人くらいはいるが、どうやら家族らしい。後に路上であった英語の使える女の子に聞いた話では、ようするに曾祖父母以下の家族が全員、つまり従兄弟同士まで全員集まって暮らしているということだそうだ。
 つまりごく普通の民家だったということだ。入口を入ると、20畳くらいの広さの中庭があり、中庭の端に十数人は座れそうなダイニングテーブルがあって、ナンやお菓子、ナッツなどが置いてあった。
 ぼくは、直ぐにダイニングテーブルに腰掛けるように促され、お茶とお茶請けを勧められた。そして、例によって「写真を撮って」のリクエストにあい、それが一段落すると日本らしい富士山の写真などを見せて盛り上がったりした。
 そうこうしているうちに分かったのが、この家は従兄弟を含めた大家族で暮らしているということである。英語のできる女の子は大事そうに一家が写っている写真を取り出して僕に見せてくれた。いい忘れたが、僕が案内された家の中には、子供以外の男性は不在だった。彼女は、若い二人の男性の写真を見せて、彼らは空軍に勤めている、それで私たちは暮らしている、と教えてくれた。
 ちょっと理解できなかったのは、おじいさんに奥さんが何人いるか、である。英語のできる女の子、といっても片言も片言だったので、写真を指さして、「Grandfather girlfriend」という程度であった。Wifeというような語彙までは知らないらしい。写真のある一人を指さして、「Grandfather son.Another grandfather girlfriend」と言われた時は戸惑った。おそらくイスラムは一夫多妻制を認めているので、別の奥さんの子供だと理解したが、それ以上のことは分からなかった。
 とにかく大家族だった。おじいさんの兄弟は少なくとも5人くらいはいるようで、さらにその5人がそれぞれ結婚して子供を産み、一緒に暮らしているようである。まだ赤ん坊から中学生、高校生くらいの孫世代まで、10人くらいはいたような気がする。


門の中は中庭が広がっていて、その奥がテーブルだ。


 席についた英語のできる女の子から、ラグマンを食べるか、と勧められたので遠慮なくいただくことにした。
 しばらく写真を撮ったり、スマホの中に保存されている日本の写真を見せたり、いろんな話をしていた。が、僕がラグマンを食べ終わるころには盛り上がるネタも尽きたのか、みな各自の持ち場に戻っていった。
 まだ午後の4時くらいだったと思うが、家族は夕食の準備をしているようであった。よくあるきゅうりとトマトのサラダを作るために食材を洗って切っていたり、なにやら魔女の怪しげなドリンクのように大きな釜でスープのようなものを煮込んでいたりした。
 あまり長居してもしょうがないので、僕はお礼を言って外に出た。


ダイニングテーブル方向から見るとこうなる。怪しげな煮物を大きな棒でかき混ぜている。


 サマルカンドは本当に出会いの宝庫かもしれない。ブハラやヒヴァに比べても、街行く人に声を掛けられた回数は比較にならなかったと思う。民家を出たあとも旧市街で子供のやおばさんに声を掛けれられて写真を撮り、絨毯屋さんで日本で働いていた人と会って話し込んだり、下校途中の高校生に声を掛けられて大盛り上がりになったり、わずか数時間の間で目まぐるしかった。

 そうして、夕暮れ時も近づいてきたし、結局街歩きで足も痛くなってきたので宿に帰ってゆっくりしようと思っていたところ、不意に「ニーハオ」と、聞き慣れたような、この地には違和感のあるような挨拶を受けた。思わず「ニーハオ」と返すと、学生らしい若い男性3人組が満面の笑みで駆け寄ってきた。ここから先の会話は、北京語だ。
 彼らの北京語は大分たどたどしかったが、それでも十分意思疎通は可能だった。英語でも十分通じる場合は少なかったので、ウズベクで一番会話をしたのは彼らとだったろう。彼らはサマルカンド外国語大学の中国語学科の3年生だった。まだ中国に行ったことはないらしい。いつもレギスタン広場のあたりで中国人の観光客が来ないか探していて、中国語をしゃべるチャンスを待っているらしいが、中国人観光客はめったに来ることがないようである。たしかに、ウズベクでは中国人観光客を全く見かけなかった。だから、彼らはネイティブでないにせよ、北京語の話者である僕に出会って嬉しくてしょうがないようすだった。直ぐに、「僕達の寮に来てください。後輩に紹介したい」と誘われた。正直足が限界に近かったので「遠慮しとくよ」と言おうかと思ったが、彼らのキラキラした眼差しを見たらちょっと断る勇気がなくなってしまった。結局ついていった。

 5分くらい歩けばつくよ、と言われた彼らの寮には10分以上歩いてようやく到着したと思う。道中もいろいろ話をしたが、たまたまティムール像の前をとおりかかったときに、自慢げに「あの像はもう見た?」と聞かれたので、「聞いたところによると、ウズベクはティムール帝国を倒した人たちが作ったそうだ」と気になっている問題について聞こうとした。その後「何故あなた方は自分たちが倒した相手を英雄視しているのか」という質問が待ち構えていたのだが、ちょうどそのタイミングでホテルを探しているフランス人に道を聞かれたのだか、助けてあげたのだか、彼らがそっちにかかりきりになってしまい、続けての質問をする機会を失った。
 大学の寮の入口は管理人がいて、外部者は容易に入れないようになっているようだ。彼らが「友達だ」とでも説明してくれたのか、寮の入口にある改札機にも似たゲートのようなものを開けてもらって中に入った。
 寮は4人部屋で、学科は関係なく部屋が決まるらしい。テレビやDVD鑑賞用の部屋が何部屋かあって、テレビを見る学生で埋まっていた。調理室もあり、夕食の準備をする学生が忙しそうだった。調理は当番制だそうである。
 階ごとに男女が別れていて、彼らは男性と女性の中国語学科生に紹介すべく、上へ下へと僕を連れ回した。皆ここぞとばかりに中国語を話したかったらしく、いろんな話題で盛り上がって、写真を撮って、別れた。


これがテレビのある休憩室。学生にとっては憩いの場になるに違いない。


 観光を放棄して旧市街をぶらぶらすることも、まして民家に入り込むことも、学生の寮に招かれるのも、やはりきままなひとり旅ならではなんだと思う。だから、仮におんなじ世界遺産を巡るにしても、僕はやはり個人旅行、きままなひとり旅がいい。
 こうして僕はサマルカンドにちょっとだけ入り込めたような気もするし、あとで印象に残るのは観光地をめぐったことではなくて、いつでも現地の人との出会いだ。憧れのサマルカンドは、歴史的建造物だけでなくて、人の温かさでも僕の心にのこることになった。

学生たちと。みんな純粋で、好感が持てた。

2013年4月30日火曜日

ブハラ―民族の興亡と不思議な寛容さ


 ウズベクに行けばわかるが、ウズベク人はとても親日的である。街を歩けば「こんにちは」とか「ハロー」と必ず道行く人に声を掛けられるし、すぐに何かと助けてくれるものだ。おそらく「外国人はお金持ちだから少し多めにお金をもらってよい」という感覚があたりまえなのであろう、少々ボラれたことはあったが、ブハラまでの道のりではたくさんのウズベク人に助けられた。

 モンゴル人の団体客を載せて満席の大韓航空機は、夕闇せまるタシケントに着陸した。多くの先人の指摘があるが、税関検査に大幅な時間を要し、ようやく空港の出口にたどり着いた時はもう着陸して2時間近く経過していた。

 今回は初日のホテルすらまったく予約していなかった。僕のウズベキスタン滞在期間は到着日を入れて8日で、主要なサマルカンド、ブハラ、ヒヴァの3都市を回るとすると結構時間的に余裕がない。そこで、なるべく夜行列車での移動を取り入れることを大まかに考えていた。具体的には、初日はタシケント空港から駅に直行し、ブハラに近いナヴォーイというまちまで夜行列車を使うつもりだった。列車の切符が買えなかったら、最悪多少高くてもタシケントでホテルを探せばいい、そう思って空港を出た僕はタクシーを探した。

 やはり、空港に到着そうそう駅に向かうような酔狂な人間はあまりいないらしく、タクシーの運転手に「トレインステーション」と連呼してもまったく通じなかった。最終的に、英語できる人に運転手が電話し、通訳してもらうことでようやく駅が目的地であることを理解してもらうことができた。このタクシーは10分強の距離であったと思うが、5ドルと、ややボラれることになった。まあ、最初だし、切符を手に入れることが先決なので仕方ない。

 駅の周辺は柵で囲ってあり、切符を検札所で見せて構内に入ることになる。が、一見して切符売場がみつからなかった。事前の情報収集で、駅の左右2箇所に別棟で切符売場が存在するということは知っていたが、それらしきものも見当たらない。
 そうしてバックパックを背負ってうろうろしていると、何人かの現地人が声をかけてきて、「カッサ、カッサ」という。おそらく「カッサ」は切符のことだろうと思い、切符購入用のメモを示すと、「それきた」とばかりに一人のおばさんが切符売り場まで案内してくれた。ちなみに、このおばさんは駅利用者への売り子のようで、後で駅に戻るとチップを要求されたが、これはご愛嬌だ。

 案に相違して、切符はあっさり購入できた。切符売り場にほとんど人はいなかった。「本日、ナヴォーイまで」と切符売場で告げると、「今日はないよ」と金髪のロシア人女性に言われて一瞬ひやっとしたが、やっぱりあるということだった。タシケント発サンクトペテルブルク行きという気の遠くなりそうな長距離列車がその曜日にあり、ナヴォーイを経由することは調べてあったので、僕は安心した。

 駅構内に入って、トイレを探してウロウロしていると、ベンチに腰掛けていた老人が切符を見せろという。切符を見せると、近くの売店の売り子の女性を呼んで、連れて行ってやれと行ってくれたのだろう。女性はわざわざ売店の鍵を閉めて、僕を車両まで連れて行ってくれた。まだ出発予定時刻までは一時間弱あると思っていたが、女性は小走りで急ぐので驚いた。結局女性は息を切らせながら、僕の乗る予定の車両を見つけて、車掌さんに取り次いでくれた。

 やっぱり出発までは時間があったらしい。車内は動き出すまで真っ暗で、出発までの間僕は特にすることもなかった。車掌さんは日本人が珍しいのか、興味を持ったようで、車掌室に僕を招くいていろいろと聞いてきた。と、いっても僕はウズベク語もロシア語も挨拶程度だし、車掌さんは英語ができない。車掌さんが「ウズベク、タシュケント、ジャパン?」とやる。これは日本の首都を尋ねる意味だと理解して「ジャパン、東京」と僕が答える。車掌さんが僕を指さして「東京?」と聞く、これは出身地を尋ねる意味と理解して「ノー。名古屋」と答える。こんな感じで言葉は全く通じないながらなんとか会話が成り立っていった。結婚しているのか、子供がいるのか、今回どこに行くのか、私はサマルカンド出身だ、サマルカンドはいいところだ―不思議なもので、こういうやり取りはなんとかできてしまう。僕は久しぶりに中国語も分からぬままはじめて中国に飛び込んだときや、ホータンのヨーグルト屋さんでの出来事を思い出した。車掌さんとは、「ナヴォーイにつく15分くらい前に起こしてあげるから、安心して寝るんだぞ」といってわかれた。


寝台車はサンクトペテルブルグまで行くそうだ。




 僕が選んだのは開放寝台といって3段ベッドが向かいあって並んでいる安いものである。しかし、僕の区画には他に人はいなかった。疲れていたし、時差もあったので、あっさり眠りにつき、車掌さんに起こされたときはちょうど太陽が地平線から顔を出している時であった。

 ナヴォーイの情報はガイドブックにも、インターネット上にもほとんどなく、ブハラまでの道のりに関しては多少不安だった。まあ、朝早いし、時間はたっぷりあるから、最悪ある程度の額を出してタクシーをチャーターしてしまえば問題ないだろうという楽観的な考えの方が強かった。
 ナヴォーイの駅前には何もないと行ってよかったが、改札を出る前に早速バックパックを抱えた僕の周りに白タクの運転手のおじさんがまとわり付き始めた。「ブハラ」を連呼すると、「50ドル」という。それはあまりにも高いので、「他に頼む」とやっているうちに、どうやら「バスターミナルまで2ドルで行く。そのあとバスに乗っていけばいい」と言っているようだった。この値段なら問題ないので、OKし、タクシーに乗り込んだ。
 本当に何もない街だった。モスクらしい建物は2つ見て、タクシーのおじさんも車を止めて「写真をとれ」と言っていたが、正直それほど由緒あるモスクにも見えなかった。タクシーは田舎町を15分ほど走っただろうか、バスターミナルに到着した。降りる際に運転手のおじさんは「4ドルだ」とにわかに言い始めた。2ドルであることは紙に書いて確認しているからその旨主張して断ったが、相手も譲らない。その間にバスが行ってしまっても面白くないので、やむなく4ドル支払うことにした。口頭であっても、一度合意した金額を後で引き上げてくるという体験は中国でも、ベトナムや他の国でも滅多にというか、まったくなかった。紙に書いてある値段を反故にしてボろうとするのはもちろんはじめてだが、ウズベクではもう2回ほど同じような事態を体験することになる。残りの2回は毅然とした態度で先の約束を指摘すると、頭をかきかき引き下がるという微笑ましいものだったから、そのことでウズベク人の親切さを疑うわけではないが。


ナヴォーイの名も無きモスク


 ブハラへ向かうバスは、客がいっぱいになるまで1時間強待ってようやく出発した。バスの中でも運転手さんと、添乗員の女性にいろいろと話しかけられた。夜行列車の車掌さんと似たようなパターンで、旅行なのか、ブハラ以外にどこにいくのか、結婚しているのか、子供がいるのかというもので、言葉が分からなくてもなんとかやりとりできてしまう。思えば、これははじめて中国を旅行した時に聞かれる黄金パターンであって、僕の中国語はこのような会話からはじまったのだった。ほどなくおよそ日本人と見られることがなくなり、この黄金パターンを忘れていたが。それにしても、ベトナムやタイ、マレーシアなどではあまりこのパターンで話しかけられることはなかったように思うが、どうしてなのだろう。やはりそれだけウズベク人は外国人に関心があるということなのだろうか。

 乗合ワゴンのルートをしっかり書いておらず、あまり役に立たないガイドブックのせいでムダにバス停と街の端っこを2往復した挙句、タクシーを使って僕はブハラの旧市街の中心、ラピハウズに到着した。まあ、ガイドブックの所為にしてはみたが、「ラピハウズ、ラピハウズ」と連呼してれば親切なウズベク人は助けてくれたと思う。

 ブハラはもともとソグド人が居住しており、安禄山がブハラ出身であることは先に触れた。その後13世紀のモンゴル軍来襲により破壊しつくされたため、現在のこるモスク等の歴史建築は主に16世紀以降、シャイバーニ朝のものである。旧市街に歴史的建造物が固まっており、なかなか趣のあるまちだ。
 この旅で一番居心地のよかったのは実はブハラだったかもしれない。夜になれば真っ暗で、人気もないからすることがない。しかし、昼のバザールに行くと、生ビールを格安で飲ませてくれる屋台があり、その雰囲気が何より気に入った。バザールまでの路上も、下校中の小中学生や、大人まで、カメラを首から下げている僕に声をかけては写真を撮るようにせがんだ。屋台には2日連続で通ったが、2日目は1杯1400シム=50円の生ビールをついつい5杯も飲んでしまった。


生ビールと串焼きで乾杯!


 旧市街のハイライトは、カラーン・ミナレットと隣接するカラーン・モスクだ。12世紀の建築で、モンゴル軍による破壊を免れた数少ない建築物である。なんでも、ジンギスカンが見上げた時に帽子を落としたとかで、腰をかがめて帽子を拾ったジンギスカンが「私に頭を下げさせたのだから破壊するな」と述べたそうである。どの史料が出典なのか、信憑性があるのかは知らないが、他の市施設とことなって破壊を免れたのは事実のようだ。
 ミナレットとモスクの構えが青空に見事に映える。モスクはメドレセ(=神学校)になっていた。メドレセでの学業は厳しかったかもしれないが、きっと青空に映えるミナレットとモスクを見て昔の学生は気分転換をしたのだろう。


カラーン・ミナレットを中心とする風景は青空に映える


 また退屈な歴史の話に戻って恐縮だが、ウズベク人とタジク人の関係について触れておきたい。ティムール帝国を滅ぼしたシャイバーニ朝がウズベク人の起こりであることは述べた。その後、現在のウズベキスタンとタジキスタンにあたる地域はブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国、コーカンド・ハン国というウズベク3ハン国に分かれたがタジク族は非支配民族であったようである。3ハン国は19世紀にロシアに征服され、20世紀初頭のロシア革命によって民族分布とは無関係に人為的にウズベキスタン共和国、タジキスタン共和国などの中央アジア国家の国境線が引かれてしまった。そして、その分割時においては、サマルカンドやブハラではウズベク人だけでなく、結構な数のタジク人が暮らしていたようである。
 前述のとおりウズベク語はチュルク語族であり、タジク語はインド=ヨーロッパ語族であるペルシャ語の一派であってまったく異なるようである。なお、民族的にもタジク人はペルシャ、イラン系の民族である。

 以上のような背景があるため、サマルカンドやブハラではウズベク語と全く異なるタジク語が結構用いられているそうである。サマルカンドでたまたま日本で働いた経験のある絨毯屋の人に声を掛けられた時に聞いたが、大体サマルカンドやブハラの人々はウズベク語とタジク語とロシア語のトリリンガルだそうだ。日常会話はウズベク語もタジク語も両方用いるが、さっきはタジク語で話していたよ、ということだった。

 僕にはタジク人とウズベク人の見分けはつかない。ただ、ブハラでもサマルカンドでも、僕の見た限りでは「ウズベク人とタジク人」という民族的な住み分けは一切なされていないようだった。まして、明らかにスラブ系である金髪碧眼の人も、ごく普通に登下校したり、あるいはバザールに馴染んで買い物をしていた。

 どうやら、ウズベク人というか、ウズベキスタンに暮らす人々は良い意味で民族的な自意識が少ないのではないかと思う。
 かつてソグド人が栄え、イラン系のアッバース朝の支配やモンゴルの侵略を受け、ウズベク人が起こりながらも近代はロシアの支配を受けた、そんなブハラの激動の歴史の中でかえって言語系統や民族の差が大きな意味を持たなくなったのだとしたら、まことに興味深い。

 カラーン・モスクを背景に沈む夕日は喩えようもなく美しかった。この風景を偶然見つけた旅人は幸運だ。そういう幸運な旅人が僕と同じように言葉を忘れてじっと夕日に見入っていた。
 風景の美しさを楽しむのに難しい知識はいらない。ただ、僕にとってもなんとなく一番ブハラの居心地がいいように感じたのは、のどかさや美しい風景のためばかりでなく、激動の歴史の中で多民族への驚くほどの寛容さを身につけてきたブハラ人のおかげかもしれなかった。


この夕焼けはウズベク一だった



2013年4月26日金曜日

ウズベク旅行記(1)―ウズベク人のおおらかさ


 シルクロードの旅の続きを、と思ってウズベキスタンへ向かった。
 とはいえ、ウズベキスタンについては、サマルカンドの青い風景以外、これといって知識はなかった。サマルカンドがティムール帝国の首都であったこと、というか、ティムール帝国という存在は、大学入試の際のおぼろげな知識を後にガイドブックの記載を見て思い出した程度だ。

 ただ、新疆ウイグル自治区の主要民族、ウイグル人のウイグル語とウズベク語が似ていることは知っている。僕が通う名古屋大学大学院の法学研究科にはウズベクからの留学生がたくさんいて、何かのきっかけで話したウイグル語の挨拶が通じることに驚いた。そして、ウイグルの名物である麺のラグマンがウズベクでも名物であることをその時に知った。
 どうも調べてみると、ウズベク語はキリル文字を使うらしい。他方でウイグル語はアラビア文字であって、僕はイスラム世界の中央アジアではてっきりみんなアラビア文字を使うものと勘違いしていた。ここで頭がこんがらがってしまったので、まずは手始めに中央アジアの諸言語と民族的な歴史をおさらいすることから旅行準備を始めることにした。この旅行記もそのおさらいから始めることとしたい。

 まず諸言語に関する問題の結論は、要するに、文字と言語の系統は必ずしも一致しないというあたりまえといえばあたりまえの話だった。
 アラビア文字はアフリカ北部から中国西部のウイグル語まで幅広い言語で用いられている。が、言語の系統としては、本流であるアラビア語はもちろん、インド=ヨーロッパ語族のペルシャ語、チュルク諸語(トルコ語、ウズベク語、キルギス語、カザフ語、ウイグル語等)のおおまかに3系統に分けられるということだ。独自の文字を持たない(厳密にはそう言えないかもしれないが)ペルシャ語やチュルク諸語は、かつてアラビア文字を借用した。そして、トルコ語は後にアルファベットを採用し、ウズベク語を始めとする旧ソ連地域のチュルク諸語はキリル文字を採用したのである。ウイグル語はさすがに漢字をあてるのは難しかったからかはわからないが、依然として多少改良されたアラビア文字を使っている。つまり、チュルク諸語であるトルコ語、ウズベク語、カザフ語、キルギス語、ウイグル語などは、使う文字は違えど文法的には近いし、例えばウズベク語とウイグル語などは互いにほとんど通じるらしい。
 蛇足だが、モンゴル語はチュルク語に含まれないが、伴にアルタイ語族という上位語族に属しているため、それなりに近似性があるのではないかと思う。この稿を書いていて思い出したのが、多分ウズベク語でもモンゴル語でも黒のことを「カラ」というのではないか。ヒヴァのバザールで食事をしているときに同席になったおじさんの写真を撮ろうとした際、最初逆光だったので顔がうまく映らなかった。写真を見せるとおじさんは「カラ、カラ」と連呼し、私は「カラ」は「黒い」の意味だと直ぐに理解できた。というのは、昔、NHKのシルクロードを見た際、「カラ・ホト」という西夏の遺跡の名前の由来を紹介する際に、「カラ」はモンゴル語で「黒い」の意味だ、と説明していたのを記憶していたからである。
 蛇足ついでに、満州語もアルタイ語族に分類されるが、さらに朝鮮語、日本語もアルタイ語族に分類する学説もあるようである。その分類の適否はともかく、確かに韓国語、満州語、モンゴル語はもちろん、チュルク語系も主語+目的語+述語の語順がよく似ている。だから、トルコ人やウズベク人などが日本語を勉強すると習得が早いらしい。

 民族的な歴史については、以上のとおり現在の中央アジアの諸国家がチュルク諸語を用いていることからわかるが、現在の中央アジアのルーツは「チュルク」にある。そして、「チュルク」の始まりは中国の歴史書にいう「突厥」であるらしい。ここまでたどりついて、そういえば昔の教科書の「突厥」の説明の枕詞に「チュルク系」とか「トルコ系」というのがあったかもしれないと思い当たった。なお、突厥は突厥文字という独自の文字を用いていたが、石碑のみであって史書の類は残されていないようであり、概ね中国の歴史書からしかその歴史を探ることはできない。突厥の起源になると神話的で、狼と人間が交わって子を授かり、それが突厥の始祖となった、という類のものである。
 この旅行記は別に言語と歴史を紐解くためのものではないからこれ以上は触れないが、ごく大雑把にいえば、突厥を始祖あるいははじめにして、「チュルク」は多民族との混血などの様々な来歴を経て、トルコ人やウズベク族、カザフ族、キルギス族などに分れたということらしい。

 ここまですすんでなかなか本題に入らない旅行記を読むのをやめてしまった方もおられると思うが、もう少し民族の話におつきあい頂きたい。ソグド族の話である。
 中国史が好きな人なら、ソグド族といってまず思い浮かぶのは安史の乱の主役である安禄山ではなかろうか。古来、タシケント、ブハラ、タラス河畔の戦いで有名なタラス、汗血馬で有名なフェルガナなど、ウズベク、カザフ、キルギス、タジクにまたがる地域をソグディアナといい、ソグド人はこの地域に暮らしていた。独自の国家を作るよりは他の国家、クシャーナ朝(ペルシャ系)や突厥に支配されながらも、独自の文化を保っていたようである。
 今回のウズベキスタン旅行記は、ブハラ、サマルカンド、ヒヴァを主な対象とするが、ブハラとサマルカンドがソグディアナに属しており、安禄山はブハラ出身だったそうで、それを知るとなにやら親しみが湧いてくる。
 ソグド族は商才に長けた民族であったようで、シルクロードの貿易を通じて活躍していたようで、それがもとで唐に入り込んだようである。玄奘の記録によると「性格は臆病であり、風俗は軽薄で、詭詐がまかり通っている」だそうであり、安禄山が太鼓腹を指して「陛下への忠誠心が詰まっております」と玄宗に媚びたことを思い出した。もちろん、玄奘は太宗李世民の時代の人であるから、安禄山のことは知らない。
 そうしてソグド族は独自の文字を持つ高度な文化を保持して栄えたようだが、アッバース朝支配の時代になると、地域のイスラム化に伴い、他の諸民族に同化して消滅してしまったらしい。現代ではソグド人も、ソグド文字も、ソグド語も用いられす、唯一タジキスタンのヤグノーブ渓谷に住むヤグノビ人がソグド人の末裔らしい。
 要するに、ソグディアナからソグド人は忽然と姿を消してしまった。

 現在世界遺産となっているサマルカンド、ブハラの建築群は主として14世紀のティムール王朝時代か、それ以降のものである。ジングスカンの来襲とともに街は破壊し尽くされ、基本的にそれ以前のものは残っていないらしい。ティムールが都をおいたサマルカンドの中心部には大きな彼の像が残っており、ウズベクでは今でも英雄である。
 ところが奇妙なことに、ウズベキスタンは、そのティムール王朝を倒したシャイバーニ朝が直接の起源らしい。なぜ自分たちの仇敵を英雄扱いすることになったのかはよくわからない。

 話が長く脱線したように思うが、旅行記の本題に入る前に次のようなことを考えたのである。
 ソグド人という一大民族が消滅してしまうほどに、中央アジアの歴史は、チュルクはもちろん、そして西方のギリシャ系、アラブ系、ペルシア系、東方のモンゴル、中国といった諸民族の激しい興亡地帯であった。その割に、不思議なまでにウズベク人はおおらかだ―仇敵を英雄扱いしてしまうほどに―というのが歴史からみることができるのかもしれない。

 そんなおおらかなウズベク人の土地にいよいよ一人乗り込んでいく。