2005年2月21日月曜日

麗江―やさしいナシ族


 麗江に来た。
麗江は,中国雲南省の四川省よりの地域にある,小さな古都だ。
かつての面影を残す町並みは,麗江古城といって,世界遺産に登録されている。
小さな,きれいな町だ。
 もともと,ナシ族という少数民族が住んでいた地域で,ナシ族の里といわれている。雲南省は少数民族の宝庫だが,この地域ではナシ族が多いのだ。
 最近は,テレビの影響で有名になったが,現存する唯一の象形文字,トンパ文字を使うのはこの民族である。もっとも,最近ではトンパ文字を読み書きできる人は少なくなり,もっぱらTシャツの図柄など,お土産用として使われるくらいである。
 貴陽を朝出発して,一路雲南省を目指した僕が,雲南省の省都である昆明にようやく到着したのはもう夜も10時を回ったころだった。
 予定をどうするかはあまりはっきり決めていなかった。
昆明を2,3日かけて観光するつもりではあったものの,大理や麗江という他の町にも興味があった。そして,その後目指すベトナムへの興味もますます深まってきていた。
 昆明に一泊する手もあったが,僕は強行軍でそのまま夜行バスを使い一気に麗江に向うことにした。昆明は大きすぎる街で,何にも予定を決めずにふらふらするにはあまり向いていない。それなら,麗江に明日の朝つくようにして明日はゆっくり街を見て回ればいいのだ。
 
 こうしてにわかに麗江行きを決心した僕は,バスターミナル内で麗江行きの夜行バスを探した。大理行き(正確には,近くの下関行き)のバスは多いが麗江行きのバスは見当たらない。客引きの若い男に,「麗江行きはないのか」とたずねると,麗江行きらしいバスまで連れてってくれ,チケットを買わされた。
「正規運賃よりも安い,140元だ」
言われてガイドブックを見てみると,確かにガイドブックに書いてある正規運賃より安い。言い忘れたが,雲南省では正規で走っているバス以外に,私的に運行されるバスが多いようである。夜になると,バスターミナル付近に客引きがあふれる。バスターミナルを一応使っているのだから,正規のバス会社じゃないのかといわれると,僕は詳しくないので分からないが,とりあえず時刻表などなく運行されているようなので,僕は私的に運行されるバスだ,と思った。
 余談になるが,その後僕が昆明からベトナムとの国境の町,河口に向うときにまたこのバスターミナルに来た。その時は僕の言う意味で正規のバス,つまり,チケット売り場でチケットを買い,時刻表どおりに出発するバスを利用した。
 昆明から河口へのルートは,中国からベトナムへと抜ける旅行者の著名なルートになっており,その日も僕以外にアイルランド人のバックパッカーが4,5人乗り合わせた。そのとき,われわれが大きな荷物をバスのしたの荷物入れに預けようとすると,一人の少年がつかつかとやってきて,
「荷物を預けるには一人50元いる!」
と結構流暢な英語でアイルランド人の一人に話しかけた。僕はもちろん,旅行者相手のたちの悪いたかりだと思って,中国語で受け答えしてあまり口を開かなかった。彼は,疑うアイルランド人に対し,
「Fack off!」
と口汚い英語をはいて執拗に食い下がっていたが,一人50元をだんだんと40元,30元,20元,,,ついには10元とまけていった。
 アイルランド人は10元になったところで,それくらいは仕方ないか,という感じで結局支払ってしまった。
 僕は,同じように大きなバックパックを背負っていたが,中国人のふりをしたため,彼のたかりを逃れることができた。
 何が言いたいのか,というと,中国も雲南省くらいに来るとまだまだ公安の統制がゆるいのかな,ということである。こういうせこいたかり行為は今まで別の省では見たことがなかったし,多分おおっぴらにやれば誰かに密告されるなど取締りの対象にはなるのではないか。
 私的なバス会社が多いというのも,その所為なのかもしれない。
 もちろん,以上はまったく僕の想像に過ぎないが。

 話がそれたが,僕はチケットを買って,麗江行きのバスに乗り込んだのだが,実はそれは大理(下関)までしか行かなかったのだ。どうも,もともと大理に行くバスで,僕が乗るときだけ,バスのフロントガラスに掲げるプレートを「麗江」行きに変えたらしい。チケットにも「麗江」と書いてあるが,もちろん,それを大理のバス職員に見せても麗江行きのチケットには変えてくれなかった。
 要するに,まんまとだまされたのであった。
 仕方なく,僕は麗江行きのチケットを買いなおして麗江に向った。バスは,雲南の盆地を疾走した。はっきりと覚えていないが,何度か峠を抜けたりしたろうか。移り行く景色に見とれているうちに,バスは麗江についた。
 麗江の宿は,「古城香格韻客棧」に決めていた。前に敦煌の飛天賓館で出会った日本人旅行者が,麗江を非常に気に入ったらしく,この宿に泊まるといい,と薦めてくれたのがそこだった。
 麗江の古城にはいる。麗江の古い町並みが残る地区は古城と呼ばれている。赤い観音開きの扉が入り口で,白い壁と灰色の瓦葺の家。石畳の道。世界遺産なりの趣はある。ただ,惜しいのは観光化されすぎていることだろう。古城の中には,お土産屋があまりに多い。観光客もあふれている。
 あこがれていた麗江だが,すこし僕は落胆した。勝手なもので,いい観光地ほど観光客が少なくあってほしいのだ。
 目指す宿は,古城の東のはずれにあった。
「ドミトリーはありますか?」
以前に比べて大分上達した中国語で尋ねると,
「有,有(ある,ある)」という答えがすぐに宿の主らしきおばさんから返ってきた。一泊いくら?15元。というやり取りの後,従業員らしきお姉さんに僕を部屋に案内させると,そのおばちゃんは,
「荷物を置いたら,下に来てお茶を飲め」
といった。中国の宿で,そこまで熱心な歓迎を受けたのは初めてだったから,僕は大分面食らった。
 宿のおばちゃんは,ナシ族らしい。これが,僕のナシ族との最初の出会いだった。
ちょっと,おばちゃんの迫力に圧倒され気味な旦那さんも,従業員のお姉ちゃんも若い兄ちゃんも,何の意味もなくふらっと宿の中に入っきて話をして帰っていく近所の売店のおっちゃんも,みんなナシ族だった。
 いちいち書くのが面倒なくらい,ナシ族の人々は親切だった。本当にお金をもうけるつもりがあるんだろうか,と疑いたくなる。宿には,中庭があり,いすがたくさん置いてある。いすに座ってくつろいでいると,お茶を飲め,とお茶を入れてくれるし,いろんなお菓子を食べろといって持ってきてくれる。こんな宿だから,いろんな人をひきつけてやまないらしく,長く滞在する人も多いようだった。
 宿には,中国人はもちろん,日本人や,ロシア人や,韓国人や,スイス人,フランス人など,きわめて多国籍な顔ぶれが集っていた。おばちゃんが,「ギターを弾け」というので,僕も多国籍に曲を披露した。中国語曲は既に何曲か歌えたし,ロシアは学校で習ったロシア民謡(一週間とか,カチューシャ),韓国人には韓国語曲はさすがに知らないので,韓国でもカヴァーされた日本曲,後は,全世界共通のビートルズ。
 音楽はいいものだ。おかげで,あっという間に各国の皆と仲良くなれた。宿は,まるで家のように居心地がよかった。一週間くらい滞在しても気にならないくらいだ。
 なんにせよ,こんなに居心地がいいのも,おばちゃんをはじめとして,宿の人の人柄のおかげだろう。

麗江はすっかり観光地化されているが、街並みは美しい


 長江の上流が麗江の近くを流れている。
長江も,ここまで来ると大分川幅が狭くなっている。諸葛孔明が異民族の征伐に来たときもこの付近を渡ったという。中でも,トラでも飛んでわたれそうなほど狭く深い渓谷になっている部分があり,虎跳峡という。ここは,トレッキングのスポットになっていて,非常に面白いという話なので,僕も出かけることにした。虎跳峡のトレッキングは結構距離があるので,一泊はしないと全行程を徒歩で行くことはできない。僕は,一泊分の荷物をもって,虎跳峡へと出発した。

 虎跳峡の景色は,やはり言葉で表現することが難しい。日本の渓谷のように,うっそうと茂る森はない。とはいえ,シルクロードのようにらくだ草しか生えていないというわけでもない。草はむしろ一面に生えている感じである。
 僕は,車で回る,と言っていた同宿の韓国人に便乗して,虎跳峡の入り口,橋頭についた。ただ,運転手さんにはそのことがうまく伝わっていなかったらしく,登山口のようなところを通り過ぎてしまった。
「僕は,歩いて虎跳峡を見るつもりだったんだ―」
そう伝えると,僕は路上で下ろされた。車道は,長江沿いにあり,トレッキングルートは車道を上に上ったところに有る。運転手さんが地元の人に聞いてくれたが,要するに上へ上へと道なき道を行けば,トレッキングルートにぶつかるらしい。いまさら入り口にもどのるのは面倒だから,ここから上に上っていけ,とのことだった。

 若干不安だったが,例によって親切なナシ族の地元民が,この道を登って,右に行って左に行って,,,,と行けば必ずつくから,というので,僕もようやく安心して,草だけが生えたがけのような道を上へと向かうことにした。
 案の定,すぐに迷った。
右に行け,左に行け,と言ったって,何しろもともと道なき道のようなものなのである。どこで曲がったらいいのかとても分かったものではない。
 民家があり,一人の少女が遊んでいた。風貌からして,ナシ族だろう。彼女は僕を見咎め,何をしているの,と聞いてきた。つたない中国語と,身振り手振りで,「上に行って,トレッキングするんだ」というと,彼女はついて来い,といって僕を道案内してくれた。ナシ族は子供まで親切なのだ。
 それで,大分上まで行き,後はまっすぐ行くだけ,となったところで,彼女は突如
「銭(チエン)」
お金をちょうだい,と言い出した。
 これには,面食らった。気のいいはずのナシ族の少女がそんなことを言い出すとは,しかも,まだいたいけない少女なのである。そんな生々しい要求があるなど,思っても見なかった。
 しかし―。
 僕は,すぐに思いなおした。少女の住む家にせよ,決して裕福には見えない。また,少女もあまりきれいな格好をしているとはお世辞にもいえないようなものだった。
―金,生活するための金ってのは,普遍原理なのだ―
中国に初めてやってきたとき,思い知らされたが,半分忘れかけていたようなことが,また頭をよぎった。誰が少女を責めることができる。
 ただ,これも既に学んだことだが,適正相場は守らなければならない。安易に金が入ることを覚えることは却って少女に悪影響を及ぼしかねない。情にほだされたり,あるいはお金に群がる人々をみて優越感を感じてついつい与えすぎてしまう旅行者も多いようであるが,安易にお金や物をあげることの危険性は十分認識すべきであろう。
 僕は,そういうジレンマの中で若干苦しんだが,結局一元札を取り出し,彼女にあげた。それがよかったのかどうかは,自信がない。
 いずれにせよ,ナシ族の善良さを無条件に信じてしまっていた僕にとって,ショックではあった。真っ白な人間の頭は無防備だ。宿のナシ族のあまりの善良さに,僕の真っ白な頭は占領されていたのだ。人間の事実に対する認識や,価値判断は,こうも影響されやすいものなのである。

 ともあれ,僕はトレッキングルートを見つけると,それに沿って歩き始めた。虎跳峡を一泊で歩きぬけようとするのは強行軍なのだ。一日目で半分以上行って置かないと,虎跳峡の出口の町,大具から麗江へのバスに乗り遅れかねないのだ。そうすると,もう一泊を余儀なくされる。
 道中では,スイス人とよく出会った。山の多いスイス人だから,トレッキングが好きなのだろうか。アルプスの風景に親しんでいるはずのスイス人も,虎跳峡の風景は素晴らしい,と手放しでほめていたから,僕もやはりここの景色は本物なのだな,と思った。
 そういうスイス人や,日本で2年くらい仕事をしていたというニュージーランド人に出会いながら,僕はどんどん先を目指した。彼らは2泊で行くらしいので途中の宿に泊まっていったが,僕は先を急いだ。
 今度は,中国人の団体に出会った。この団体の人々は,山道のトレッキングロードが途切れて,車道と合流するところにある宿に宿泊するらしい。さすがにかなり疲労がたまっていた僕は,もう少し先を急ごうかな,とも思ったが彼らの泊まる宿に宿泊することにした。一人でいるのが少し寂しかったこともある。

 その日の夕食は,その中国人の人たちと一緒に食べた。どうやら,みなもともと住んでいる場所は違うらしく,麗江で団体を組んで虎跳峡にやってきたらしい。ハルピン出身の女性や北京出身の女性もおり,上海から来たカップルもいれば,広東省から来ている人たちもいた。
 実は,電気の通っていない場所らしい。あるいは,たまたま停電していただけなのかもしれないが。
 いずれにせよ,夕飯を食べている途中で日は沈み,ろうそくの明かりの下で,ビールを開け,飲んだ。やはり,ご飯は大人数で食べるのがおいしい。

 無用心な話だが,ビールに酔って記憶をなくしてしまったらしい。それまで,大学生のとき部活の先輩に散々日本酒を飲まされ記憶を失ったことが一度だけあったが,度の薄い中国ビールでまさか記憶をなくすとは思ってみなかった。一日中歩き通しで疲労がたまっていたせいももちろんあるのだろう。
 とにかく,気がついたら部屋のベッドで横になっていた。何も盗まれているものがないことに安心したが,たぶん明かり代わりに使ったのだろう,デジカメの電池が完全になくなっていた。もともと電気が通っていない場所なので充電の余地はない。麗江に戻るまでもう写真は撮れないが,それはあきらめるほかない。
 次の朝,中国人の団体の中のおっちゃんにあうと,
「お前,昨日のこと覚えているか,酔って大変だったんだぞ―」
と言って,笑った。



虎跳峡の風景。どこか懐かしく、美しい。



 既に書いたが,虎跳峡は二日で走破するつもりだった。
結構なハードスケジュールである。

 前日に,少し妥協して泊まってしまったので,僕は次の朝早く宿を出発する必要があった。虎跳峡のもうひとつの端,大具から麗江へのバスは昼に出て,それ以降はないのだ。だから,昼過ぎまでには大具に着かなければならない。
 僕は,挨拶もそこそこに,宿を辞して,再び一人歩き始めた。

 宿からの道は,舗装されていて,歩きやすい。初日に歩いた山道とは違うのだ。完全に車道を歩くのである。右手には,長江が流れているが,あまりにも谷が深いので川の流れは見通しのいいところにいかないと見えない。初日の山道を歩いたときほどではないが,景色は僕を飽きさせることはない。
 一時間と少し歩いたところだろうか,それまで切り立った崖にへばりつくような道路を歩いていたのが,すこし開けたかんじのところまで出てきた。ぽつぽつと人家があった。
 僕が人家の前を通り過ぎたとき,その人家の中から一人の老婆が現れた。ナシ族の民族衣装をまとっている。
「どこに行くのか,大具か?」
とつぜん中国語と身振りをまじえて尋ねられた。一見して旅行者風の僕であるから,多くのトレッキング客と同じように大具の街まで行くと思ったのだろう。
「そうです」
と,僕がつたない中国語で答えると,
「私もそっちの方向にいく。ついてきたらいい」
こう,また身振りをまじえて言った。

「どこから来たのか」
「日本です」
こう答えると,老婆は大きくうなずいた。僕の中国語がつたない理由が分かったのだろう。
「私はナシ族だ。私も北京語はあんまり分からない」
なにか,そういう意味で僕に親近感を持ってくれたのかもしれない。
 考えてみると,中華の衛星群としては僕もそのおばあさんも一緒なのだった。ナシ族が中国政府の支配下に置かれたのは,長い歴史からみたら最近のことにすぎない。われわれはともに,漢民族の文化に照らされ,影響をうけ生きてきた。
「日常ではナシ族の言葉しかつかわないんだ,だから」
というようなことをおばあさんはぼそっと言った。言外には,僕の勘違いなのかもしれないが,北京語を押し付けられることへの不満が滲み出しているように感じた。

 さすがに地元のひとで,近道を教えてくれた。道路沿いの崖を越えていくのだ。それにしても,おばあちゃんはもう70歳にはなっている感じだが,健脚このうえない。としよりだからすぐ疲れる―と僕に漏らしながらも,軽々と崖を上っていった。この間,あまり会話がなかったのは,僕の語学力が不足していることもあるが,息が切れてそれどころではなかったこともある。
 崖を越えて,小さな川を超え,民家の間をぬけと10分ほど歩いただろうか。突然視界が大きく開けた。
―まるで,桃源郷のようだ。
 大げさかもしれない。しかし,そう思ったのだ。
天気も寒くない。むしろ春の陽気だ。一面に広がっていたのは,菜の花畑。黄色い花を一面につけ,緑と黄色のコントラストがなんともいえない風景を作り出していた。農作業をする老婆,買い物に行くのだろうか,牛を連れて歩く老婆が行きかい,ナシ語でおばあさんと挨拶を交わしていた。菜の花畑では蝶々が舞う。
 それは,まるでここだけ時間が止まっているのではないか,と思わせるほど穏やかな,なにか懐かしい風景だった。

「心洗われるような風景」
まさにこの言葉にふさわしかった。
長い旅行をして,いろいろな場所に行っているが,こう呼べる風景にはそうめったに遭遇しない。単に珍しい,素晴らしい風景とは違うのだ。
 シルクロードの青い空と砂漠のように,うまくいえないが,自分の心の中の汚い物が一気に蒸発していくような,穏やかな心地になる風景。こういう風景はむしろ,昔ながらの人がそのまま暮らす風景なのだった。

 桃源郷を歩いている時間は,そう長くなかったかもしれない。一見昔ながらの生活をしているように見えるが,それはあくまでも僕の目からである。電柱があり,電気は通っているし,道路もアスファルトで舗装されている。
 おばあさんは,そんな道路が通る,この小さな集落の中心地らしきところまでくると,肥料を買うために店に入った。

 大具にいくには長江を渡らなければならない。橋はない。
虎なら跳んでわたれるのかもしれないが,われわれ人間がわたるためには渡し舟が必須だ。その渡し舟の乗り場までは,この集落からもう少し歩かねばならないようだった。
 おばあさんは,肥料をかかえ,歩き出した。

「私の家族は5人で,子供は3人いる。でもみんな街に出てしまっている」
こういうような話をおばあさんは歩きながらしてくれた。
「おまえは,何であまりしゃべらない」
ずっと,おばあさんの言うことを聞いてうなずいている僕をみて,おばあさんはこういった。
「いや,中国語がよくわからないから」
もちろん,うそをついたわけではなかったが,むしろ老婆と話すべき適当な話題が思い浮かばなかったのだ。あたりさわりのない話をするほどの語学力がないという意味では間違いないのだが。
「旦那さんはどうしているの―」
そういう話題は,振りづらかったのだ。
 それで,僕はとりあえず,おばあさんの振ってくる話題に分かる限り答えることに専念した。重そうに抱える肥料もかわりに持ってあげた。

 おばあさんの家に着いたようだ。どうも,少し寄っていけ,ということらしいので,基本的に好奇心旺盛な僕は甘えることにした。
 家の中に入って,僕は,桃源郷のような世界,と安易に思う自分を恥じた。
 家の中は,貧しさをあらわしていた。
 決して散らかっているわけではない。しかし,電気はなく,だだっ広い土間に大きなテーブルがひとつあり,後は台所があるだけの平家だった。汚いからというわけではないと思うが,部屋のなかではハエがうようよしていた。暗く,じめじめした感じの部屋だった。
 当然,桃源郷のような,というのはそこに住む人の現実の生活を捨象した見方に過ぎない。それを,まざまざと見せ付けられた感があった。
 それでもおばあさんは,僕にお茶を勧めてくれたし,お茶請けまで出してくれた。
「睡眠薬が入っているかもしれない」
無用心かもしれないが,そう疑うことはやめてしまった。安全対策にはかなり慎重な方だが,虎跳峡でそのような手口による強盗があったという話はまったく聞かなかったし,なにより,一緒に小一時間ほど歩いて,しゃべってきた感じで,さすがにそれはありえないと思ったからだ。だいたい,だます気なら,もう少しきれいなうちに案内するものだし,おばあさん自身僕のバスの時間を気にして,間に合うなら―という趣旨で誘ってくれたのである。

 人間,騙されるときは,どれだけ疑っていても騙されるものである。まさか,ここまで親切にしてくれて騙すわけがあるまい,そういう記述を海外旅行の安全対策の本で読んだことがあった。
 しかし,もちろん,僕が睡眠薬で眠ることはなかった。

 おいしいお茶と,お茶請けをいただいて薄明かりの差し込む家で少しゆっくりさせてもらっただけだ。
 家の中では,あまりおばあさんと話をしなかった。話題がなかったのもあるし,語学力の問題もあろう。しかし,居心地の悪さはまったく感じなかった。
「そろそろ,バスの時間があるから―」
そういって僕が立ち上がると,おばあさんは家の外まで出てきて,見えなくなるまで手を振って見送ってくれた。
 やむをえないとはいえ,おばあさんの好意を疑った自分を僕はひどく恥じた。



真ん中左の緑の服がやどのおばちゃん。その右は近所に住んでいてよく油を売りにくるおっちゃん。その後ろが旦那さん。なんとなく尻にしかれてそうだった。



 麗江は居心地のいい街だ。
 同室の人に,貴陽から来た大学生がいたが,その人は一日中中庭で本を読んでいた。僕ももっとゆっくりしたかったが,虎跳峡から戻った次の日の夜行バスで昆明に戻ることにした。今にして思うと,地元民と一緒にバスに乗ってもっと小さな村に行ってみてもよかったのかもしれない。

 宿の代金は,最終日に清算することになっていた。いままで中国の宿では必ず取られていた押金(デポジット)のシステムはなかった。それほど客を信頼しているのである。
 宿の代金と,夕ご飯の代金で90元近く(それでも3泊だったが)になる。僕は,計算してお金を宿のママに渡したが,全額はいらない,80元でいいという。僕は,あくまで引き下がったが,ママはまったく受け取る気がないらしい。
「あなたは,親に借金して旅行にきているんだから」
こう説得された。
「またきたときにかえしてくれればいいよ」
本当に金銭欲というものがない人らしい。

 宿からバスターミナルまでは,ミニバスともいえない,町を順次循環するワゴンのような小さな乗り合いタクシーに乗らなければならない。
 それで,やどのママの旦那さんが僕を一緒に乗り合いタクシーが捕まるところまで連れて行ってくれた。
 そして,車通りまで出たところで,クラクションを鳴らされたのでみてみると,虎跳峡まで行ったときの例の運転手だった。ママから話を聞いて急いで追いかけてきたのだろう。そして,乗り合いタクシーであることを示すボードを掲げて,車は乗り合いタクシーへと早変わりした。
 運転手さんは,親指を僕に向って立て,ニヤリ,と笑った。

 まったく,つくづくナシ族ってのは親切なんだから―
 僕は少し名残惜しさを感じつつ、麗江をあとにした。

                                                             (中国編,了)