2004年12月26日日曜日

淮陰・徐州・沛・洛陽―史記・三国志の旅(1)


 考えてみると、ガイドブックにも載っていない町を旅するのは初めてだった。
日が落ちかかったころ、上海から長時間バスに揺られ、ようやくバスは淮陰に到着したらしい。
 ―子供のころ、地図帳で名前を見てはあこがれていた地にようやくたどり着いた!―
 などという感慨は全く沸かなかった。
 ただ、異国で何の情報もない町に一人でやってきたことに不安を覚えた。
 バスターミナルらしきところには、やれタクシーだ、人力車だ、なんだという客引きがバスから降りてくる我々を待ち構えていた。そのなかの一人が、「淮安へはこのバスに乗るんだ」とマイクロバスを指差すと、確かに「淮安」という文字と、市内バスであることを示す?Aだかの○数字の安っぽいシールが車体に貼られている。淮陰は昔の地名で、今は淮安市と名前が変わっていることを僕は知っていた。
 ―まさか、こんな田舎町で旅行者を騙そうなんてこともなかろう。
 そう思って、僕はバスに乗り込んだ。
 後で分かったことだが、バスが到着したのは楚州区という淮陰では南の地域で、僕が訪れようとしている韓信関係の史跡は全てこの地区にあった。無駄足だったのだが、それはいい。
 淮安の鉄道駅までバスは僕の不安を裏切るかのように運んでくれた。大きなバックパックを背負っている僕は、オフシーズンの宿屋の客引きにとって格好の餌食だった。すぐに一人のおばさんが声をかけてきた。僕は、青島での経験もあったので、外国人でも泊まれることを確認した上でついていき、シングルの部屋を20元にまけてもらった上で宿をそこに決めた。
 落ち着いた。
 改めて、「寝るところがある」ことの重大さを感じたのであった。以前、上海で電車に乗り遅れたとき、一泊350元くらいの、僕にしてみれば高級ホテルにチェックインしたときもそうだった。しかし、意外にまあ何とかなるものなのだ。究極的には、お金さえ惜しまなければ、また泊まる宿のグレードにこだわらなければ、何とかなるものなのである。
 落ち着いたついでに、すぐに地図を仕入れて、夕食を食べに行ったレストランのおばちゃんに韓信関係の遺跡をどうやって回ったらいいのか訪ねた。おばちゃんは実に親切で、それは全部楚州区にあること、何番のバスに乗ってどこどこでおりて、そこには人力車が待っているから10元はらえば三箇所回ってくれるはずだ、と実に必要な情報を明快に示してくれた。
  韓信という人のことに少し触れておく必要があろう。
 韓信は、前漢の初代皇帝劉邦に仕え、全国統一に尽力した有能な武将である。淮陰のあたりに生まれ、若いころから志を持っていたが、貧しかった。釣りをしていて腹をすかせている韓信を見かねて老婆が飯を韓信に恵んだ。韓信は感謝して、「後日必ずお礼をする」と言ったところ、老婆は「大の大人が腹をすかせているから、哀れんで飯をあげただけだ。見返りなんか期待するものか」と答えた。また、ある日韓信が町を歩いていると、ならず者に「お前は体はでかくて剣も下げているが実は臆病者だろう。俺を切るか、さもなくば股の下をくぐってみろ」といわれて平然と股をくぐり、町の人に臆病だと笑われたこともあった。後日韓信が大出世したあと、老婆には千金を与え、ならず者は「あの時お前を殺すことは簡単だったが、あの時そうしなかったおかげで今日の私がある」として中尉に取り立てている。
 韓信が老婆にご飯を恵んでもらったという所には漂母碑という祠がある(韓信が釣りをしていたのは「史記」の注によると淮水という町の北にある川であったとされるが、祠があるのは淮水でなく、池である)。韓信がならずものに言われて股をくぐったという橋(「史記」には橋と出ていないが、なぜか橋らしい。しかし、現在のこるのは通りのゲートのようなものである)のあともあった。取ってつけたように建っているもので、もちろん由緒も何も感じられなかった。予想していたことなので、それはそれでいい。
 記憶に残っているのは、淮陰、しかもその楚州区という田舎の風景だ。人力車は、舗装もされていない田舎道を走った。放し飼いの鶏があるいていた。子供たちがゴムボールか何かを追って遊んでいた。市場があった。犬が皮を剥がれてつるされていた。魚が桶に入れられて売られていた。そして、僕は金髪碧眼の欧米人ではないから、何の違和感もなくそんな町に溶け込んでいたようだ。すれ違う人が興味深そうに僕を見るようなことは一切なかった。中国の原風景らしきものがそこにはあった。そして僕はそこに同化したかのようであった。
 僕は、志を胸に辱めを甘受した韓信、千金をもらったり、取り立ててもらっておそらく目を丸くしたであろう老婆やならず者、そして韓信を嗤った町の人々らの感覚にすこし肌身で触れることができたような気がしたのであった。

股くぐりの場所は全く由緒を感じない

 淮陰の次は徐州に向かった。言うまでもなく、三国志の劉備は「徐州の牧(長官)」としてこの地をおさめていた。そして、実は項羽が故郷に錦を飾った彭城というのは徐州のことである。しかも、劉邦の故郷である沛県というのはこの町のすぐ北にあり、三国志でも小沛という名で登場する。いわば、僕のような人間にとっては垂涎の地である。
 ここでも、観光地は似たりよったりのものであった。それも分かっているので、がっかりすることはない。呂布が、劉備と袁術配下の武将の戦いの調停をするために、「150歩先にある戟の要の部分に、私が矢を打って刺さったならば和睦せよ」と言って見事射抜いたという話が三国志演義にある。この稿を書く際に調べるまで全くの創作だと思っていたが、魏書呂布伝にもこの話が出ていた。150歩先は大げさなのだろうが。
 ともかく、その場所に碑が立っていて、呂布射戟台と名付けられている。近くにはビリヤード台が置いてあって、普通に住民がビリヤードをやっていた。漂母碑や韓信の股くぐりの橋よりももっとひどい、とりあえず作っておけといういかにも中国的発想の産物だった。
 沛も田舎だった。普通の中国人の普通の風景を見ることが出来た。公園の池は寒さで凍りついていたが、なんと寒中水泳をする人たちがいた。同じ池で氷を割って魚を取るためか、網を投げている人がいた。呂布の射撃碑までの道が分からず、地元の人に尋ねると、その人も知らないらしく他の人に相談したうえで教えてくれた。寒さのあまりなのか、犬が路上で死んだようにあちらこちらで寝転がっていた。このあたりは犬をよく食べるらしいから、あるいは食用の犬なのだろうか。
 淮陰から徐州までの距離や、徐州から沛までの距離、そしてだだっ広い平地をバスで通ることが、はるか2000年の昔進軍する軍隊などを髣髴とさせた。彭城の跡は、徐州でも小高い丘の上にあったようだ。沛は全くの平地であった。こういう地域で呂布と劉備は攻防を繰り広げていたのだ。沛県というこんな小さな町(とはいえバスターミナル付近にはビルがそれなりに立ち並んでおりいわゆる田舎を想像してた僕は少し面食らったのではあるが)から蕭何、樊膾(ヘンは口)、夏侯嬰、曹参、周勃といった前漢の名将・名宰相たちが生まれたのだ。中国の広さを自分の足で知っているだけに、そのことの偉大さを改めて感じた。

彭城の項羽はなかなかりりしい
次は洛陽だ。洛陽は、後漢の都であった。後漢が宦官の専横によって乱れ、その宦官を誅殺したことからさらに混乱し、やがて董卓が実権を握り、後に討伐軍に追われ董卓は洛陽を焼き払い、長安に強制的に遷都する。三国志の前半は洛陽を中心に進行した。
 洛陽は大都会といっていいかと思う。淮陰や徐州以上にこころときめくものは感じなかった。三国志関係の史跡で見るべきは、関羽の首を祭ったという関林廟くらいだ。ここでもやはり、徐州から洛陽までの鉄道が往時の感覚をしのぶのに一番よかった。
 新年を洛陽で迎えたが、一人だった。一人旅の貧乏人を慰めるような場所は少なくとも僕にとってはないように思えた。少し孤独を感じて疲れていたのかもしれない。
 洛陽では有名な龍門の石窟や白馬寺を見て、次の目的地、襄陽に電車で向かった。



2004年12月23日木曜日

韓国人の不思議な自然さ―ソウル・青島・上海


 以前、シルクロード旅行記でスンヨプとの出会いについて書いたことがあると記憶している。その際、韓国人と会話すると、なぜか後になって違和感がない、まるで日本人といたようだ、と書いた記憶がある。今回も、そんな韓国人との出会いのお話。

 安東からバスを使って、一路僕はソウルへと向かった。プサンで引いた風邪は十分に治りきっていなかったのかもしれない。ずっと頭がボーっとしており、ソウルでの常宿と勝手に決めていたキムズゲストハウスに朦朧としながらたどり着いた僕に、オーナーのキム・サニーさんは自分の夕食であるキムチチゲを振舞ってくれた。

 キムズゲストハウスは、2度目だった。前の年、司法試験に失敗した僕は失意で勉強に全く手がつかず、ふと思い立って韓国への放浪の旅に出かけたのだ。その時に、たまたま選んだ安宿が、キムズゲストハウスだった。その後世界各地のいろいろなゲストハウスに宿泊しているつもりだが、このゲストハウスほど家庭的でフレンドリーなものはいまだに出会ったことはない。当時、ゲストハウスの構造は、1階にドミトリーが一部屋と2階に個室が何部屋かあったと思う。そして、1階のリビングとダイニングでは皆がくつろげるようになっているが、実はこれはサニーさんの家族と共用なのだ。安東の民宿(ミンバク)も実に家庭的であったが、こっちもそれに劣らず家庭的である。そして、サニーさんは長い間日系企業に勤めていたことがあり、日本語が堪能で、日本の文化にも精通し日本人に好意的で、そのせいか日本人客も多い。
 前の年に来たときには、ここで別の日本人の宿泊客とマッコリを飲みながら語り明かした。サニーさんももちろんその輪に入っていた。一つだけやりとりを覚えている。サニーさんが、「アメリカが韓国に軍事介入してくる可能性が大きい」という言葉を発し、驚いたことがある。僕は、「韓国」とは「North Korea」のことですか、とすぐに聞き返したところ、サニーさんは、そうだ、といった。サニーさんの日本語は堪能であるから、「韓国」と「北朝鮮」を言い間違えたということではない。つまりサニーさんの感覚では、「北朝鮮に米軍が軍事介入する」というのは「韓国に米軍が軍事介入する」と同じような出来事なのだ。あらためて、南北分断の重さを知った気がした。
 サニーさんは非常にホスピタリティあふれた人で、いつも笑顔でわれわれゲストに応対してくれる。客のことにあれこれいつも気を配ってくれて、帰ってくると「今日はどこに行ってきましたか」、ダイニングに座っていると「お茶でもどうですか」、などと声をかけてくれる。リビングで集まって一緒にお酒を飲んだのも、サニーさんの人柄ならではだと思う。
 そんなサニーさんが、一瞬顔をゆがめたのを今も忘れていない。「今日はどこに行くの」と聞いたサニーさんに対し、国立博物館にいって、その後、「独立門」に行くんだ―と答えたときである。「独立門」という言葉に、サニーさんはすぐに眉をひそめ、少し間があって、
「それなら、歩いていけばいいと思います」
 とだけ答え、身を翻し別の作業に移った。
 「独立門」はフランスの凱旋門を模して作られた門であり、ガイドブックなどでは、すぐそばにある西大門刑務所―日本統治時代の韓国の独立運動者が投獄された監獄のあとの代名詞である。つまり、韓国の植民地支配への抵抗と独立の象徴とされているのだ。

 サニーさんは、僕のことを覚えていてくれた。それで、「夕食はまだだ」と言った僕に対し、「常連なんだから、遠慮しないで」とチゲを振舞ってくれたわけだ。風邪で食欲のない僕に、このチゲは本当にありがたかった。サニーさんは一事が万事、だいたいこういう人なのである。そんなサニーさんの暖かさが大好きだ。
 翌日は、風邪で一日中寝込んでいた。韓国の仁川から青島にフェリーが出ているが、それは週2便で翌々日の出発であったので、ソウルを観光することなく、僕は出発することにした。サニーさんは、旅行会社に電話して、ここでもフェリーチケットの余りが無いかどうか確認してくれた。


仁川で乗ったフェリーから見た空と夕日は何故かとても美しかった



  仁川の港へは、ソウルから地下鉄(途中からは地上だが)がつながっている。チケットも特に苦労なく買うことができた。ただ、乗客は当たり前だが中国人か韓国人で、日本のパスポートを見せるとある係員は訝しげにじろじろ見、ある係員は好奇心旺盛な顔で僕にいろいろ声をかけた。
 船の上は、退屈だった。風呂にはいったり、映画を見たり、船内をうろうろしたりしたが、すぐに飽きて僕は寝てしまった。
 起きれば、青島だった。雪が積もっている。寒い。ソウルもかなり寒かったが、それ以上だ。
 船を下りた僕は、とりあえず地図を買って、本日の宿を探すべく青島の駅に向かおうと、バスを待った。
 と、そこへ一人の韓国人が僕に声をかけた。
「君は日本人だろう?君の背負ってるギター、船でみたよ。僕は隣に寝ていたんだ。もっとも君も僕もすぐに寝ちゃったから話すことは無かったけど」
 僕も突然のことにびっくりしたが、すぐに言葉を返し、お互い簡単に自己紹介をして、旅行中であることを話した。お互い貧乏旅行者であることが確認されると、僕らはすぐに2人シェアして一緒に泊まれる宿を探すことにした。今にして思えば、すこし危機感が無さすぎに思えるが、その時は「この人は大丈夫」と思ったのだろう。
 彼の名前は忘れてしまった。仮にOさんとする。年齢は27くらいだったと思うが、プサンの大学院生で、顔の整形をするために整形治療費の安いハノイまで陸路で行くそうだ。途中、張家界という観光地に寄るらしい。
 僕らは駅前の客引きに従い、一人20元のホットシャワー付の部屋を見つけ、翌日以降の移動のための切符を購入しに、駅へと向かった。僕は上海に留学中の友人にあうために、上海に向かう予定だった。彼は張家界行きの切符を買う。
 僕とOさんは、貧乏旅行者というところでは一致する。ところが、彼はとことん貧乏旅行者であり、僕は違った。上海行き電車(硬臥)の値段は大体180元くらいだったと思うが、駅前に止まっているバスなら100元くらいだった。それでも僕は快適さから考えて、電車だなと思っていたのでそれを購入した。しかし、彼はそれを信じられない、もったいない、といって僕にバスで行くことを勧め、それでも僕が断ると、少しすねたような顔で「わかった。君は快適に寝台電車で上海まで行く。僕は、座席で24時間かけて武漢まで行って、それからまた乗換えさ」と言って硬座のチケットを買った。
 彼は、物怖じしない、そういう面で僕と対照的な人だった。最初にバスに乗ったときも、つたない発音で「フォーチャーザン、フォーチャーザン(鉄道駅の意味)」と連呼し、行き先を通じさせていた。青島で有名な偽物市場の名前も覚えているらしく、これも連呼して道を聞いていた。僕はといえば、何度か書いたがシャイな性格が災いしてなかなかそれができない。それで、前の旅行をとおして少しはできるようになった中国語を使うのだが、それも「アー」と中国人独特の聞き返し方をされるのが決まりが悪く、中途半端なままだった。
 でこぼこコンビな我々であったが、旅は道連れ、なんだかんだで結構楽しかった。一緒に青島市内をうろうろし、寒いのでマクドナルドでお代わり自由のコーヒーをのみ、夕食は「日本のしゃぶしゃぶに近いものが食べたい」ということで「火鍋」を食べた。
 彼は、「自分の初体験はいつで、こうだった」とか、「中国でも彼女が何人かいるんだ。一人はやせててであとはデブ……ホテルにいってはじめて分かったよ」とか、まあ下世話な話題を提供してくれ、これには若干閉口したが、一人で飯を食べるよりははるかにいい。
 翌日、僕の電車のほうが早く、駅でお別れしたが、やはり一抹の寂しさを感じたものだ。スンヨプともあれほどしゃべっていない。会話はずっと英語だったが、日本語でしゃべっていたような感覚だった。

彼は少し変わっていたが、やりとりは自然だった

 上海へは、翌日の朝ついた。留学生の友達と会えるか心配だったが、駅のホームまで迎えに来てくれていたおかげで、電車から降りるとすぐに分かった。
 上海では、青年船長酒店というユースに泊まる予定だった。留学生の友達に通訳してもらい、ホテルで聞くと、満室らしく、会議室に臨時のベットを置いたところなら空いているということで、それで了解した。
 そこでもまた、韓国人の女の子2人と同室になった。
 2人は学生で、上海には友達に会いに来たらしい。その友達という女の子も含めて僕らは英語と中国語まじりでいろいろと話をした。これももう何を話したか余り覚えていない。が、いろいろ話をしたはずだ。親の仕事のこと、彼女らの大学のことなどなど。

 僕が上海を立つ朝、2人は蘇州に半日観光に出かけ、上海駅に戻ってきてから電車に乗って移動するとのことだった。まるで、夏に来た僕とそっくりだ。
 そこで、上海駅への移動方法と、荷物をどこに預けるかについて彼女たちと一緒についていって教えてあげた。僕は、淮陰という、項羽と劉邦に出てくる韓信という将軍の生まれ故郷にバスで移動する予定だった。バスターミナルは上海駅の近くだったのである。

 彼女たちからは、日本に帰った後、メールと写真をもらった。曰く「ありがとう。あなたがいなければ上海駅までたどり着けなかったと思う」。
 韓国から中国へ移動し、その前半は友達以外に日本人にはあわなかった。ずっと韓国人としゃべっただけだが、不思議に外国人としゃべった感じがしない。それだけ、東洋人としての感覚に近いものがあるのかもしれない。


右の二人が同室の韓国人で、左の子はその友達の中国人




―以下余談
 淮陰へのバスの時間は、留学生の友達に教えてもらっていた。しかし、駅からバスターミナルは以外に遠く、道に迷ったこともありなかなかたどり着かない。やむを得ずタクシーをつかまえてバスターミナルについたころには、既に淮陰行きのバスは出てしまっていた。次のバスは午後、6時間くらい待たなければならない。
 そう思って、思案に暮れていた僕のところに客引きらしい男が声をかけてきた。「どこに行く」「淮陰だ」男はしたり、という顔でうなずいて、そこに行くバスがあるといった。ようは白バスらしいが、6時間待つのは無駄なので、その誘いに乗ることにした。バス代も、値切って正規の値段より低くした。
 こうして、紆余曲折はありながら、無事?に僕は憧れであった中国歴史の旅に出ることになった。


2004年12月20日月曜日

ハフェマウル―老婆の孤独


 韓国は二度目だった。
僕は、中学生の頃ヨーロッパに行ったことがあるが、一人旅で初めて海外に出たのは実は一年前に韓国に10日ほど行ったのが初めてだった。
 そのときは、非常にショックなことがあって、それこそ逃避の旅行であったが、それだけに出会った人のさまざまな親切が身にしみたし、感じるところに深いものがあった。
 ついでに言うなら、食べ物もとてもおいしかった。
 一度行ったことのある、韓国にどうしても足が向いたのは、自分でもはっきりしないがどうやら漢字文化圏の点だけでなく、そういう理由もあったみたいだ。

 しかし、今回の旅行の幸先は悪かった。
前回の船旅に少し味をしめていた僕は、プサンまでの船旅に期待するものがないわけでなかったが、12月だけに出発する旅行者は皆無に等しく、一人で4人部屋を占領してプサンに到着しただけだった。
 プサンに着いたら着いたで、すぐに風邪をひいて二日目なんかはかろうじて昼間は活動できたものの、ゲストハウスに帰ったらまったく動けないくらいだった。
 もう少し元気があれば、いろいろな行動が取れたはずなのに―そういう後悔を若干感じながら、僕はプサンを後にし、韓国東北部にある安東(アンドン)という街にむかった。僕が興味を持ったのは、アンドンにある河回(ハフェ)マウルというところだ。ここは、かつての朝鮮貴族である両班(ヤンバン)の暮らしていた村がそのまま残っている。しかも、その村に現在も変わらず村民が生活を続けていて、村全体がテーマパークのようでありながら実際の生活の拠点となっているのである。そして、その村民の家に「民泊(ミンバク)」といってそのまま宿泊できるようになっているのだ。これは、是非一度泊まってみなければ―そう思って僕はハフェマウルを目指した。

霜がおりたハフェマウル

 ハフェマウルはアンドンの市街地からバスで30分ほど行ったところにある。韓国では僕はよくバスを乗り違える。それは、下調べがたりないせいの場合もあるが、結局、バスの運転手さんに聞いてみることをついつい躊躇してしまうからだ。以前慶州の仏国寺でバスを降り間違えた話をカラクリ湖の項で書いたが、今回も例に漏れずおんなじ失敗をしてしまった。
 要するに、ガイドブックを見ると、バスはハフェマウルの中まで入ると書いてあるのに実際は入り口でユーターンして引き返してしまったのだ。僕は、「降りる―」というタイミングを失って、坂道を大分下った次のバス停まで黙って乗り続けて、降り、バスの来た道を歩いて引き返す羽目になった。
 そういう自分の心理をなかなか分析しづらいのだが、やっぱり恥ずかしいのだろう。前に反省したにもかかわらず、旅の恥はかき捨て、という諺を実行に移せないでいるのだった。

 何か、今回の旅は最初から躓いてばっかりだ。唯一の慰めになったのは、バス停からハフェマウルに引き返していく途中、仮面博物館を発見したことだ。アンドンは仮面で有名な土地であり、世界の仮面を集めた興味深い博物館がある。こういうことがなければ入場しなかっただろう。

 何とかハフェマウルの入り口に戻ると、今度はミンバク探しだ。ただ、ハフェマウルの入り口には観光案内所があり、日本語の堪能な人がミンバクについて解説をしてくれた。アンドンという地名を知っている日本人はなかなかいないものだと思うが、日本語での案内ができる人がいるとは、この地まで結構な日本人が訪れていることの証左であろう。なんと、その人自身もミンバクをやっているそうで、今日は日本人の団体で満室だからとめられない、とのことだった。
 その人は、いくつかよいミンバクを紹介してくれた。値段の相場を聞くと、「大体一泊20000ウォンから30000ウォン」とのことだが、ガイドブックには「15000ウォンからある」と聞くと、「それは交渉次第だ」と言ってニヤリと笑った。

 僕は、マウルの中に入り、紹介されたミンバクへ向った。ある曲がり角を曲がったあと、一人の老婆に出くわした。老婆は僕を見るたび「ミンバク?」と話しかけた。大きな荷物を背負って、いかにも旅行者風だったので一目でミンバクを探しているとわかったのだろう。
 僕は、「オルマエヨ(いくらか)?」と聞くと、「30000ウォン」と行ってとりあえずついて来いと、身振り手振りで促した。その強引さに僕は圧倒され、値段交渉を続けながらついていくことにした。

 老婆の家は、マウルのはずれにある、小さな一軒家だった。ヤンバンの住居は寝殿造りのように本来は回廊があって、、、となっている。一見して、ヤンバンの家ではない。
 ハフェマウルに来た以上、できれば昔ながらのヤンバンの家に泊まりたい―そう思っていた僕は、「25000ウォン」と値段を下げてきた老婆を無視して別の宿を探そうとした。観光案内所で案内してもらったミンバクはまさに僕の要求を満たすようなものだったのだ。
 「20000ウォン」
さらに値段が下がった。ついつい、それならいいかな、と思ってしまった。老婆はもう70歳を過ぎているのではないか、という感じだが、一人暮らしの風である。子供や旦那はどうしてしまったのだろう―どうやって生計を立てているのだろう―日本の統治時代を経験しているはずだが、日本人の僕に関してどんな感情でいま向き合っているのだろう―そういうセンチな感情が多分内心で影響したのだろう。僕は、「わかった」と言って、そこに泊まることに決めた。

 老婆は、優しかった。僕は、家の一室をあてがわれたが、テレビがないので、居間で見ろ、と身振り手振りで言ってくれた。それで、居間にいると、老婆は別に僕に話しかけることもなく、テレビに見入っていた。オンドルの床は暖かいが、老婆は僕に気を使って強いてある掛け布団をかけるといい、とこれも身振りで示してくれた。
 「あそこに食堂があるから食べに行って来い」
これも、ご飯を食べるしぐさをしたあと、指を食堂の方向にさして、ジェスチャーで教えてくれた。言葉が通じなくても、何とかなってしまうものなのである。

 マウルの雰囲気は、気に入った。もちろん、観光化が進んで、それに頼って住民が生計を立てていることは否定できないだろう。しかし、建物の雰囲気や、夜がやってきた後の静寂はしばらくの間現代世界というものの中にいることを僕に忘れさせた。
 老婆とは、結局ほとんど言葉を交わさなかった。
でも、老婆の優しさと、一人身の寂しさのようなものは言葉がなくても十分感じるとることができた。
 唯一、老婆が日本語を使って話しかけてくれたのが、
「おとうさん、おかあさん、イッソヨ(いる)?」
であった。

 老婆が僕に少しでも興味を抱いてくれていることを感じたうれしさも含め、説明しがたい寂しさ、悲しさ、などが混ぜこぜになった複雑な感情が僕にわきあがった。
 おそらく、僕は顔をくしゃくしゃにしていたと思う。
「イッソヨ、イッソヨ(いる、いる)」
そう、何度も大きくうなずいた。



2004年12月13日月曜日

出発―旅にでる理由




 不思議なものだ。
何故か、バンコクまで、飛行機を使わずに行ってみたい。
そう思った。

 そうすることに意味があるのか、と言われると返答に困る。
いくらかそれらしい理屈をつけようとすると、距離というものを肌身で感じてみたかったから、ということになるのかもしれない。

 別に旅をするのに理由は要らないと思う。
ただ、いずれにせよ、旅に出るのなら、何かしら主題があった方が達成感があるし、楽しめる。別に、気の置けない仲間と騒いで、日ごろの鬱憤を晴らすというものでもいい。
 あるいは、自分の将来や自分自身に迷って、日本を飛び出してみる、ということもあるかもしれない。

 旅の本質とは、日常からの逃避と手軽な達成感を得ることにある。
 もちろん、それだけには限られない。しかし、多分、それはひとつの真実だろう。
そして、それは決して悪いことではない。
 次のステップへの活力につながる限り。

 よく、山登りに対して「なぜ山に登るのか」という問いが立てられる。
そして、その答えは「そこに山があるから」なのであるが、山登りも同様な性質を持つように思う(ただ、山登りの場合は手軽な達成感の方に重点があろうが)。


 ともあれ、僕が、バンコクまで飛行機を使わずに行ってみたい、と思ったひとつの理由に、その二つがあったことは否定できないようである。



大阪南港を出発するときの夕日



 年明けの4月から、社会人になる。
大体12月から、3月いっぱいは時間がある。
この時期を逃したら、もう一生大旅行はできない。
そして、自分の目で見ておきたいものがある。自分の足でふみしめたい場所がある。
 飛行機を使わないで行くという問題にかかわらず、特に中国に再び足を向けたのはこれが理由だ。中国の地名には、幼い頃から慣れ親しんでいる。僕は、史記・三国志などの本が好きで子供の頃夢中になって読んだ。小学校だったか、中学校だったか、社会科の授業の時間、退屈に任せて地図帳を広げ、本の中で見慣れた地名が今も存在することを知って、はるかな土地に思いをはせたものである。


 僕の予定したルートは、大阪から韓国のプサンに船で入り、ソウル近郊のインチョンからさらに船で中国のどこかに入る。その後、中国国内の目的地を回って、雲南省からベトナムに抜けて、ベトナムを横断してカンボジアを抜けタイのバンコクに入るというものだった。

 漢字文化圏に興味があった。
 韓国は、現在のハングル文字を使う前はすべて漢字を使っていたし、ベトナムもフランス植民地時代に現在のアルファベットを原型に持つ文字を使うようになった。韓国語で「ありがとう」は「カムサハムニダ」だが「カムサ」は「感謝」と書いたはずである。ベトナム語では「カムオン」だが、これは「感恩」から由来していると聞く。
 つまり、日本、韓国、ベトナムは言語学的な系統は違いがあるものの、基本的に中国から大幅に言葉を輸入していることで共通しているのだ。
 その漢字文化圏を越えて、インダス文明に源流をもつ、カンボジア・タイにむかう。ルートに関していうと、大まかにはそういう理由で決定した。

 日本にどうしても用事があるので、一度香港から日本に帰らねばならない。だから、香港からは日本まで飛行機で往復することにした。これなら、距離感を図り間違えることはない。
 あとは、行くだけ。
僕は、荷物をつめ、例によって旅の必需品のギターを背負って、大阪発プサン行きの船に乗り込んだ―。