2004年8月31日火曜日

敦煌での出会い-インインさんや純粋な少女など


 敦煌は、今回の旅のまさにメインと言ってもいいと思う。昔、小説「異域の人」を読んで涙が止まらなかったのは班超が玉門関を越えるシーンである。彼は、そこに骨を埋めるつもりで数十年来西域の平定に力をそそいだが、晩年、望郷の念を生じ時の皇帝に上奏文を送る。曰く、
「数十年来、西域の平定に尽力してきましたが、老いて旧友はこの世を去り、一人生きながらえております。洛陽まで戻りたいとは申しません。せめて、玉門関を越えて最後を迎えたいと思います」
 これを見た皇帝は、自分が生まれる前から西域の平定に当たっていた班超にいたく同情し帰郷を許可したのである。
 班超は玉門関を越えて洛陽に帰郷すると、思い残すことはないかのように息を引き取った。


 ガイドブックには玉門関の写真が載っていたから、日本を出てくる前によくよくみていた。興味がない人が見れば、ただの泥の塊ではある。しかし、だれが何と言おうと玉門関だけははずせなかったのだ。


 そういうわけなので、敦煌に着いた次の日早速日本から来た雑誌の編集者の人とふたりで例によってタクシーをチャーターしていざ玉門関へ向かったのであった。
 玉門関は敦煌の町からおよそ100キロはなれている。ゴビの中をまっすぐ横切る道路を突っ走ると1時間くらいで到着する。昔は、わざわざ玉門関を訪れる人もまれだったらしい。だから、敦煌から一日がかりで車をチャーターして道なき道を走ってようやく見ることができたような代物だとか。今は、中国政府の観光政策のお陰であろう、「西の方陽関をいずれば故人なからん」の唐詩で有名な陽関とともに観光道路が整備されている。


 僕は、ついに見た。この目で見た。玉門関を。
ああ、班超は一体何をおもってここを越えたのだろう。昔、志を抱いて玉門関の外に出たときからの数十年間が走馬灯のようによみがえったか―勝手な想像をたくましくして一人感動に浸っていると―


 「オニイチャン。ウマノルー?ヤスイネー。ヒトリ30ゲン」
妙なイントネーションだが感情のこもった喋り方だった。ヤスイネー、の部分なんかは思わず「そうか、安いんか」と頷きたくなるほど見事であった。
 そう、馬オバちゃん登場である。まさかこんなところに来て日本語で勧誘を受けるとはさすがに予想だにしていなかったので、僕も、編集者氏も面食らった。
 だが、相手にせず無視していると、
「トモダチー。20ゲン」
とかいいながら、どんどん値段を下げていく。
最初はまったく相手にしなかった僕らだったが、うっとうしくなり、
「ふたりで7元ならいいよ」
とこれはさすがに無理だろう、という値段を言ってみた。すると、案に相違してあっさりOKがでた。後で知った話だが、相場はだいたい一人3元だそうである。馬オバちゃん只者ではない。


 おかげで、感傷的な気分はすっ飛ばされたが、まあ、それはそれでいいとしよう。今日も馬オバちゃんは玉門関を訪れる日本人をてぐすねひいてまっているのか……


玉門関で馬にのる図




 敦煌は、井上靖の小説で有名なだけあり、日本人観光客が本当に多い。この旅で初めてドミトリーに泊まれたと思ったら部屋のなかはほぼ日本人で占領されていた。上海以来久しく日本人と喋ったことがなかった僕はそのギャップに戸惑った。


 ここでの出会いは結構あとまでつながっている。チベットの方からやってきた大学生の二人組は、一人は中国への留学生で、もう一人はその友達だった。留学生の方とは、後に上海で再会することになる。
 別に一人旅の留学生の女の子がいて、その子には中国人にうける曲を教えてもらった。後に日本に帰ってから、中華ポップスについて載せているブログを愛読していたが、実はそのブログの主が彼女で、彼女の敦煌旅行記に「頼りなさそうなギター君」として僕が登場していた。上海で一式盗まれた―という話をしてそう思ったそうだ(ただし、ギターを弾いた僕を見て、「見直した」とちゃんとフォローしてくれている)。彼女は、麗江の町と、とあるゲストハウスを非常に絶賛していたので、僕も後に訪れることになった。
 韓国人のスンヨプともここで出会ったが、スンヨプのことはトルファンのところで詳しく書く。他にも、某皇室御用達の大学から留学していたジャスミン。いかにもお嬢様そうな肩書きの人が一人旅しているので驚きだったが、「本名が「茉莉」だから「ジャスミン」があだ名なの。似合わないでしょ」なんて言って笑っていた、面白い人だった。隣に寝ていたマレーシア人は、嘉峪関に行くというので、もちろん「皇都招待所」を紹介しておいた。

 ジャスミンとスンヨプが自転車で莫高屈に行ったというので、僕も自転車で何時間かかけて行って見た。片道2,30kmあったので恐ろしく疲れたが、いい思い出だ。莫高屈は小説「敦煌」の主題となった敦煌文書が発見された場所である。自転車で行った僕は、集合時間を気にせず、ゆっくりとたくさんの屈を見て回ることができた。


 敦煌には長く滞在する必要があった。姉が銀行のカードなどを送ってくれるのでそれを待つためである。いくら、高名な観光都市といっても3日ほどあれば大体の観光地は回れてしまう。僕は、暇をもてあましては同じやどで知り合った人たちと旨いものを食べることが楽しみとなった。インインさんは地元だけあり、おいしいお店をいろいろと知っている。それを別に嫌がりもせず教えてくれるのだ。ワンタン、ロバ肉、鶏湯麺、などなど毎日食べては飲んで、楽しかった。
 宿の清掃をする従業員の中に、まだ中学生と小学生くらいではないかという幼い少女がいた。小学生くらいの少女のほうは、見かけるたびに本当に屈託のない顔で「ニイハオ」と挨拶してくれるので、あまりにも可愛らしく、何か忘れていた大事なものを持っているような気がした。ジャスミンにこの話をすると、このニュアンスの難しい日本語を見事に翻訳して伝えてくれた。
 出発の朝、別れの挨拶をすると、いつもの屈託ない笑顔がなく、もじもじしている。中学生くらいの女の子のに背中を押されるように一歩前に出てくると、プレゼントがあるといって、おそるおそる陶器の人形を僕に手渡してくれた。
 これは嬉しかった。もちろん、陶器の人形は僕の好みでもなかったし、高価なものでもないことは一見してわかる。でも、こんな幼い少女が、自分の大事なものをくれたその気持ちがうれしかった。残念ながらバックパッカーには陶器の人形は不釣り合いで、そのうち割れてしまった。荷物を開いてそれがわかったときは、少女の純粋無垢な心までも割ってしまったようで、少しばかり良心に堪えた。


 突然インインさんの名前を出し、紹介が遅れたが、彼女は僕の大恩人である。大きな観光地では大抵個人旅行者の日本人のために、日本人向けのカフェがある。敦煌ではインインカフェがそれにあたった。
 オーナーのインインさんは、中国人である。日本人のだんなさんと愛娘ユエユエと共にシーズン以外は日本で暮らしておられる。シーズン期間だけ敦煌にやってきてカフェの仕事をされているのだ。
 上海以来、盗まれたものの盗難届を出していなかったが、インインカフェでその話をすると、なんとインインさんが通訳をして、一緒に警察署に届けてくれるという。僕は、もちろんその言葉に甘えた。それ以来、インインカフェに毎日入り浸るようになったのである。
 玉門関に一緒に行った編集者さんと知り合ったのもインインカフェなら、車の手配を頼んだのもインインさんにである。


 インインさんがこういう人なので、自然インインカフェには人が集まる。でも、どうやらこの店をつづける気はあまりないらしい。
 もともと、趣味で始めたような店だし旦那さんと別れて暮らすのも大変だろう。インインカフェの料理の値段はもちろん周辺の地元の食堂よりは高いが、材料をわざわざ日本から送ってもらっている割には、そして何より味の割には、安いものである。そして、地元の客はわざわざ高い金を払って日本料理を食べにはこないので、いくら人気があると言っても売上げは知れたものである。
「昨日なんか、売上げはたったこれだけだったのよ」
そうこぼすインインさんだがあくまで陽気だ。
「上海で、月給45万円くらいで雑貨屋の店長をやらないかなんて誘われたこともあったのよ。でも断ったの。上海という町、あんまり好きじゃないし」
 金ではなく、信念によって生きる。
言ってしまうとものすごく単純なようだが、実際はすごく難しい。
欲深な自分が恥ずかしく思われるほど、欲のない人なのだ。


 敦煌を出発する日も、やっぱりここに立ち寄った。
「いってらっしゃい」
 と、敦煌を出発する僕を見送る声を背中に受け、僕の心には涼やかな風が吹いたようだった。


敦煌のサバクは本当に美しかった



2004年8月27日金曜日

ちっちゃなオアシス-安西


 その女の子は、僕の乗るタクシーを道端で止めて乗り込んできた。安西という小さな町に帰るタクシーの中での話しだ。


 敦煌による途中、僕はバスを途中下車して安西という町によることにした。ここには楡林窟という大きな石窟があるのだ。
 安西の町は、本当にちっちゃなオアシスだった。小説「敦煌」の時代、宋の末期には瓜州と呼ばれていた。そのころ、この町は焼き払われて廃墟と化しているのだが今はもちろんそんな影もない。
 バスターミナルの周辺には、ホテルやら何やらが固まっていて一通りのものはそろっている。しかし、そこから10分も歩けば茫漠たるゴビのなかだ。


ひたすら茫漠たるゴビがつづく




 中国の田舎にある観光地に行けば、たいていの場合公共の交通機関はないと思っていい。楡林窟にどうやって行けばいいとバスターミナルで尋ねると案に相違せず「100元でタクシーをチャーターしろ」とのことだった。
 安西の市街地から、楡林窟へのタクシーの移動はそれだけでも十分すばらしかった。果てしないゴビ。草一つ生えない岩山をこえ、時に小さなオアシスで羊や牛たちの放牧されている姿を見る。雲ひとつない青空、そして、また果てしないゴビ。
 楡林窟はそんな風景をこえて一時間ほど行ったところに、突然出現した渓谷の両脇にあった。もとは平坦だったのだろうが、長年の侵食の末2,30メートルほど水面は台地の下にあった。水辺には木々が生い茂り、花も咲き、蝶が舞う。こんな草一つないゴビの中でかくや、と思えるほど神秘的な場所だった。かつても決して交通の便が良かったわけではないだろうが、なるほど、石窟を掘るにはもってこいだ。
   
 そして、石窟自体もまたすごかった。有名な敦煌の莫高窟もそうだが、このような石窟小さな個々の石窟の集まりでできている。当時の豪族や、豪商がお金を出して石窟を作らせるそうである。
 その、何百かある石窟のうち、十数個が一般の観光客に開放されており、我々はガイドさんに従ってそれを回ることになる。ここの石窟の扉には厳重に鍵がかけてあって、毎回ガイドさんが鍵を開けて入る仕組みになっているのだ。そこで僕が見たのは、こんな辺鄙なところによくもまあこんな巨大なものを、とため息が出るような大仏。劣化していることは否めないものの、見るものに感銘を与えるに十分なほど色鮮やかな壁画たち。特別窟という、入場料に加えさらに何百元か払わないと見られない窟は拝観が叶わなかったが、十分に満足することができた。
 そうして、僕は待たしておいたタクシーに乗り込んだ。


楡林屈はゴビの真ん中で神秘的な美しさを放つところだった






 前置きが長くなったが、女の子はその帰り道、市街地まであと20分くらい、という大きな農場がちらほら見えるオアシスで車を止めて乗り込んできた。
「ニーハオ。★◆◎▲!?」
と、助手席から後部座席に座る僕に話しかけてきたがもちろん何を言っているかさっぱり分からない。例によって、筆談用のノートを差し出して会話をした。
 何人だ、どこから来て、どこに行く。何の目的でここに来たのか。大体そういう内容の会話をしていると、彼女も敦煌に行く予定があるらしく、一緒にいかないか、とか、今日は安西に泊まらないのか、何か手助けをしてあげるよ―と親切にもいろいろ申し出てくれた。僕は、その日のうちに敦煌に着きたいと思っていたので、そういうとどうもバスはもうないのではないか、ということだった。そうこうしているうちに、市街地に着くとやはりバスターミナルは閉まっていて入ることすらできない状態だった。大きい荷物をターミナル内の寄存所に預けていた僕は打つ手もなく、一泊して明日の朝敦煌に向かうことにした。
 
 彼女の名前は、張麗。僕より少し上の年齢で、中学校の社会教師をしているらしい。政治、経済について教えているそうだ。とりあえずご飯を食べよう、といって食事している間僕らは筆談でさらにいろいろ会話を続けた。
「ここへは、班超にあこがれてきたんだ。中国の歴史が好きで、史記や三国志を昔よくよんだんだよ」「あと、中国の本では西遊記とか水滸伝、詩では李白・杜甫が好きだ」
 好きだ、というよりはむしろ知っているもの全部を挙げたようなものだが、彼女は
「私もそういうの好きよ、あと紅楼夢とかも」
さすがに社会の先生だけある。ちょっと趣味が似てるのかもしれない。中国語ができなくても筆談でなんとかこの程度の会話はできるのだから中国ってのは楽しい国だ。
 そう会話している中でもけっこう支払について頭を悩ませる僕―中国って割り勘はないよね。こういう場合ってどうするんだろう。お世話になったからおごったほうがいいんだろうけど、中国人って面子を大事にしてるもんな。。。へたに、おごるよとか言っていいもんか―。とりあえず、いざ支払の段になってまずは支払う振りをしてみよう。そうおもって勘定のときにポケットからお金を出すと、彼女はなにもせずに黙って僕が払うのを見ていた。日本なら、「ここ俺が払うよ」「そんな、わるいですよ」「でも、いろいろお世話になったし、遠慮しないで」「それじゃあ。。。」というような会話が交わされるはずの場面だから少々面食らった。町を案内してくれたり、これから宿探しを手伝ってくれるみたいなので、もともと食事代は全部出す気でいたから、別にいいのだけれど。


「20元くらいの安いホテルがいいんだ」
こう、お願いすると彼女は直ぐにあるホテルに入って、値段交渉をまとめてくれた。
嘉峪関での苦労が嘘のようだ。田舎町だけあって、安いホテルはざらにあるのか、それともやはり中国語で値段交渉できるればあっさり安くなるのか。


 彼女もやはり、何か困ったことがあったら電話してと電話番号を書いて渡してくれた。僕が部屋に落ち着いたかと思うと、彼女は、名残惜しさも見せずに、ふわっと行ってしまった。


 まるで、蜃気楼のような。


 僕が立ち寄ったちっちゃなオアシスは、しかし、僕の渇きを潤すのに十分だった。 
 

2004年8月25日水曜日

皇都招待所-嘉峪関


 夕方前に嘉峪関に到着した僕の宿探しは難航を極めていた。蘭州では一泊50元近くするシングルルームに泊まっていたため、このペースで行けばとても金が持たないと、僕は意地でも20元ほどの宿を探す気。だが、カメラと一緒にガイドブックまで盗まれてしまっていてはそうも簡単にいきはしない。
 「20元的房間」とか何とか書いてあるメモ帳を見せながら手当たりしだいめぼしそうな宿を当たってみるがとてもではないが僕の希望する額の部屋は無いようだった。そうして何軒か宿を回っていると、よっぽど運に恵まれているのか、僕が頼りなさそうに見えるのか、例によって親切な人が現れた。
 そのホテルに入って例によって「20元―」の紙を差し出すと、無いとフロントのおばちゃんは言った。ただ、それまでと違ったのはガードマンらしい制服を着た男を呼んで心当たりを探してくれたところである。ガードマンはいろいろ電話をして確認を取ってくれ、一つの招待所―招待所とは、ごくごく簡単に言えば一番低級なクラスのホテルである―を紹介してくれた。


 ホテルを出てメインの通りに戻り少し歩くとビルの2階にその招待所はあった。フロントで聞くと20元の部屋はあるとのこと。早速チェックインをしようとすると、「身分証明書を出せ」といわれる。パスポートを出したところ、フロントのおばちゃんは眉間にしわを寄せて「だめだ」と首を振った。外国人は泊められないらしい。
 中国の法律で決まっているのだろうが、外国人を泊められるには政府の許可か何かが必要なのである。外国人の管理と安全のために、あまりにも設備の悪い宿にはとまらせない方針のようである。この招待所はその許可を得てなかったのだ。


 また、途方にくれてさっきのホテルにひきかえして、パスポートを見せながら「外人はダメだった」ということをジェスチュアで伝えると、ガードマンもおばさんもようやく僕が日本人であることに気がついたようである。喋っても通じないので筆談していたにも拘らずだ。案外、香港人か在外中国人とか、思っていたのかもしれない。それとも中国では中国人同士でも筆談をすることが稀でないのか。
 それはともかく、再度やってきた客でもない僕に対してまたも2人でああでもない、こーでもないと話をして、英語の通じるホテルに電話かけてくれたりいろいろした挙句紹介されたのが「皇都招待所」であった。ガードマン風の話によると「30元と言っていたが、交渉すればまけてくれるだろう」とのこと。
 僕は、親切な皆に「非常感謝」とかいた紙を見せてホテルをあとにした。


 皇都招待所もやはり、大通りに面したビルの最上階にあった。つまり、ビルのワンフロアを宿としているのである。
 ここでもやはり「20元―」とさらに今回は「外国人OK?」と書いたメモを見せると、受付のお姉さん―おばさんというべきか微妙な年齢だけど―は早口で「○★◆◎!?」とまくしたてて、あわててきづいて一人でコロコロ笑い転げた。人のいい、愉快な感じの人だ。以下筆談―
「20元の部屋はないけど30元の部屋ならあるよ」
「でも、さっき聞いたところでは20元だって言ってたよ」
これは、あの人たちも30元と言っていた以上うそにはなるわけだけど。
「いや、30元」
「わかった。だったら20元にまけてくれ」
「ダメよ。みんなそれで泊まってるんだから」
「うーん、でも僕は学生で金が無いんだ。2泊するから2泊で50元にしてよ」
「わかった」
だいたい、こんなやり取りを経てようやく長い僕の宿探しはおわったのだった。


 皇都招待所は小さくて設備もたいしたことはないけれど、そのぶんアットホームな雰囲気をもっている。受付のお姉さんは、あいかわらず何か尋ねるたびに(もちろん筆談で)早口でまくし立てては僕が理解しないのに気づいていちいち笑い転げていてた。日本人がよっぽど珍しいのか、なんで嘉峪関に来ているのか、学生なのか、結婚しているのか、彼女はいるのか、等々、もう一人のおばちゃんと一緒になって質問攻めにしてきた。でも、こっちが尋ねたことにはきちんと答えてくれるし、自分がわからなかったら「ここで聞け」ときちんと教えてくれて本当に助かった。


 嘉峪関はゴビ―日本ではゴビ砂漠という特定の場所を表す固有名詞が有名だが、ゴビとは本来は岩でできた砂漠をさす一般名詞である―のなかにできたオアシスである。蘭州をすぎて西域に入ってくるとあたりはたいてい一面のゴビでその中にポッとあたかも島のようにオアシスがあり、町を形成している。嘉峪関から南を眺めれば漢の時代匈奴の根拠地とされた祁連山脈が雪をかぶっているのが望める。万里の長城はこの町から始まっており遥か北京のもっと向こうまで続いているのだ。近くの敦煌に比べれば大分落ちるもののシルクロードの主要な観光都市のひとつである。
 僕は、2泊してじっくり観光をした後、次の目的地、敦煌に向かうことにした。




嘉峪関は万里の長城の西端の地だ


 出発の朝、チェックアウトをしにいけば、例のころころ笑い転げるお姉さんが
「嘉峪関は楽しかった?」
筆談でこう聞いてきた。
「ああ、楽しかったよ」
「じゃあ、この町にまた来る?」
「うん、きっと」
多分もう来ることは無いだろうな、とは思ってたけど。
「そう、また来たら大歓迎するから」
彼女はそう書いてくれた。
中国でもこういう社交辞令ってあるんだなあ、と妙に感心した。それとも、本気で言っているのだろうか。
 それで、
「バスターミナルに行くのには、何番バスに乗っていけばいいの?」
と聞くと
「人力車で行ったほうがいいよ、2元しかかからないし。この人についていって」
と、もう一人のおばさんを指差した。
 フロントのお姉さんとさよならしておばさんについて下に下りると、おばさんは人力車―といっても自転車の後ろに幌馬車の座席をつけたようなやつだが―をつかまえてくれた。さらに、「3元だよー」と渋る運転手に「2元、2元」と押しまくって結局2元で押し切ってくれた。つくづく、親切な人たちである。


「再見―」
おばさんに向けてなのか、誰に向けてなのか、僕は挨拶して人力車に飛び乗った。
やっぱり、いつでも別れは少しさびしいものだ。

2004年8月17日火曜日

蘭州之旅-炳霊寺石窟



蘭州という町は西安からさらに西に電車で7・8時間ほど行ったところにある、黄河沿いの工業都市である。甘粛省の省都だけに街中は非常に栄えている。ビルが立ち並び、デパートには人が群がる。典型的な中国の地方都市だ。ただ、木々のまばらな郊外の山々には植物のためにスプリンクラーで水が撒かれており、雨の少ないシルクロードにやってきたことを実感させられた。
蘭州からシルクロードの旅を始めたのは、NHKのシルクロードにも紹介された炳霊寺石窟というものを見たいがためであった。僕は、蘭州西バスターミナルから劉家峡行きのバスに飛び乗り、炳霊寺を目指した。
中国に来て、一人で初めてローカルの交通機関を使って観光に出かけた僕にとってこの蘭州からの小旅行は困難だがしかし楽しいものとなった。


バスを終点で降りて、さんざん迷った挙句ようやく黄河のダム湖にできたボート乗り場にたどり着いた僕をさらに待ち構えていたのは、料金交渉という大仕事だった。炳霊寺にはここから船に乗って向かわなくてはならないのである。後には大分慣れたのだが、料金交渉に不慣れな日本人の典型である僕は、なかなか「まけてくれ」の一言が出ない。船頭のおっちゃんが「丸ごとチャーターで400元、相乗りで200元」と持ちかけると、交渉もなくつい「200元のほうで」と決めてしまった。
しばらく待つと、6人の家族が乗り込んできていざ出発することになったが、試みにいくら払ったか聞いてみると6人で400元とのこと。僕は猛然と船頭に抗議をしたが既に払ってしまったものを取り返すのは困難で、ただ首を振るだけだった。家族づれの親父さんは「君は一人で先に来たし、私たちは学生が四人で後から来たから安いんだよ」と説明してくれたがちゃんと交渉すればもう少し安くなったのはもちろんだろう。
ただ、この一件で相乗りの中国人の家族連れ‐白さん一家‐とは一気に仲良くなった。一人で旅をしている僕に興味を持ってくれたのである。特に、高校生くらいの長女と中学生くらいの次女は習いたての片言の英語でいろいろと説明を加えてくれた。


船は草一つ生えない岩山の間にできたダム湖を突っ切って快調に進んだ。憧れのシルクロードにやってきたんだ。青い空、湖、岩山、緑のない風景を眺めながら僕ははじめて総実感した。時々現れる、小さな草原と放牧された牛・馬に妙に郷愁を覚えた。炳霊寺は、そんな風景の間をダム湖からさらに少し上流に行ったところにあった。僅かな緑と、川と岩山の織り成す神秘的な風景。僕の心は躍った。


この船の上からの風景は憧れていたシルクロードそのものだった




白さん一家とともに石窟を見て回ると、どうやらジープに乗ってもう少し奥に入るらしく、干上がった川らしきところを揺られながら奥へと入っていった。そこにはこじんまりとしたチベット仏教の寺があった。


さらにチケットが要るらしい。白さんは僕の分もまとめて払ってくれた。僕が支払おうとしても、「朋友」だから、といって受け取ってくれなかった。必死で船頭に抗議する僕に哀れを催したのか、それとも、一旦仲良くなると中国人というのはそういうものなのか。


白さんの主人はまったく英語はダメだったが、僕に好意を持ってくれているのは別れ際に携帯の番号を「困ったことがあったら、遠慮なくかけてきてくれ」と渡してくれたことでもよく分かった。中国語のできない僕には役に立たないことは分かってるはずなのに。


白さんは、中国人にしては珍しく自家用車を所有していた。子供たちも英語をしゃべることからすれば結構いい教育を受けているに違いない。僕は蘭州に向かう電車の中であったいかにも貧しそうな人々のことと比較せざるを得なかった。あの電車に乗れてるだけでもなかなか裕福なのだろうな、と思っていただけに中国では貧富の差が拡大しているということを痛感させられた。ただ、金を持っているいないにかかわらず自分なりのやり方で日本からやってきた旅人に親切にしてくれるのはとてもうれしい。


チベット仏教の寺では、すっかり白さんの子供たちに混じって、果物を取ったり、僧が出してくれたお茶を頂いたりした。再度船に乗って、ダムに戻ると一家の面々は、腹が減ってないかとパンやゆで卵をくれたり、僕がどうやって蘭州の町に戻るのかを心配したりしてくれた。船で少しぼったぼったくられたのは腹が立つが、これだけいい人たちに出会えたんだからまあいいか。すっかり僕は機嫌を直していた。チベット僧も、言葉はまったくわからなかったが、遠い日本からの来訪者に感激したのか、なにかとよくしてくれた。


このチベット仏教のお寺の雰囲気も素晴らしかった




駐車場から、手を振りながら去っていく一家を見送ると、一人旅ならではの満足感と寂しさの入り混じった複雑な感情が去来した。

2004年8月15日日曜日

硬座24時-上海から蘭州へ


 翌朝、目覚めた僕は今日のチケットを買いに上海駅へと向かった。中国の都会にある駅の切符売り場の状況は、言葉にしにくいがとにかくすさまじい喧騒である。20ほどある窓口にそれぞれ何十人もの人々が並ぶ。当然、「列に並ぶ」という習慣がまだ十分に根付いていない中国のことだから割り込みは日常茶飯事である。最近では、オリンピックを視野に入れてかこのような割り込みを防止しようと、公安が割り込みを監視しているようである。僕の並んだ列でもそのような光景が見られた。
 正面の電光掲示板には、電車の出発地と到着地、電車番号、発車時刻が表示されて、さらにそれぞれの電車につき、軟臥・硬臥・軟座・硬座の空席の有無が表示される。できれば僕は硬臥のチケットがほしかった。軟臥というのは、ソフトスリーパー、日本で言うA寝台のようなもので、硬臥とはハードスリーパー、日本で言うB寝台のようなものだ。軟座というのは、日本で言うグリーン車のようなものである。最後の、硬座というものは、文字通り硬い座席である。日本の鈍行列車のような直角な対面シートになっている。硬座のチケットは安い。中国の一般庶民は夜行列車でもこの席のチケットをつかう。
 僕は、とりあえず西安行きの硬臥を第一希望にして、最悪硬座の蘭州ないし西安行きの切符を購入しようとその旨紙に書いて係員に出した。すると、あるはずの西安行きの硬臥はなく、何がどうなったのか蘭州行きの電車の西安までの硬座のチケットを買わされた。まあ、とりあえずこれで今日中に忌まわしき上海を脱出できることになった。蘭州までだと、24時間、硬座の旅である。


 昨日の失敗で懲りた僕は、もう町をうろうろするのをあきらめ駅に荷物を預け駅前をうろうろすることにした。それで、今度こそは無事電車に乗り込むことができた。
 自分の座席のある車両に行くと、すでに中国人で埋め尽くされていた。荷物を置く場所もない。強引にほかの人の荷物をずらしてなんとかスペースを作って自分の荷物を戸棚に載せることに成功する。この時点では、ほかの乗客は何か変わったやつがいる、程度に思っていただけで、日本人の単独旅行者とは考えてなかっただろう。


 不安を乗せた列車は発車した。何しろ、硬座に乗っているのは一般庶民である。治安を期待しろというほうが無理な注文だろう。停車するたびに荷物に気を使いながら、眠れぬ夜をすごすこととなった。


 いつのまにか、うとうとしてたらしく、翌朝5時ごろ目を覚ますと外はすでに明るく、洛陽から西安に続く道を走っているようだった。まさに中原から関中に入る道である。山の間を縫うようにして列車はゆく。
 何のきっかけだったか、反対側の座席に座っていたウイグル人風のおっちゃんがぼくに興味を持っていたようで、「君は韓国人か」ときいてきた。もちろん、最初何を言われているのかわからなかったから書いてもらったのだが。「違う。日本人だ」と筆談でかえしてから、いろいろな会話をした。中国にはいつ来たのか、日本にいつ帰るのか、等々。
 そのうち、僕の持っていた小さなギターをさして、あれは何だ、見せてみろという話になる。戸棚からおろして、ギターを取り出すと、自然な話の流れとして「弾いてみろ」ということになった。
―よわった―
 もちろん、こういう事態を想定しているからこそわざわざ日本くんだりからギターを持ってきているわけであるが、日本でも人前ではほとんどギターを弾いたことはなかったのである。思い切って、どうせ相手は何を歌ってるか分からないんだから、と一曲ひいてみる。すると、「なんか変な日本人がおかしなことやってるぞ」とばかりに車両中の人が注目しだした。まだ、朝っぱらの6時を回ったくらいである。大体、電車の中で歌ってるだけでも日本では考えられない。携帯で話すことすらマナー違反とされるくらいだから。
 盛大な拍手をもらってすっかり気をよくした僕は、さらに何曲も日本の曲を弾いて、歌った。
 ほうっておくと、きりなく続けることになりそうなので、筆談ノートに
「休憩」
と書いて一休みすることにした。


手前左がウイグル風のおじさん。宿も探してくれ、親切だった




 こういうことがあってから、電車の中は一気にすごしよくなった。トイレに行こうと思えば荷物を見ていてもらえるし、車窓に名勝が現れれば解説をしてくれる。昨日の盗難の経験からかなり警戒心でぴりぴりしていた僕も大分リラックスすることができた。その後も、西安行きの切符を蘭州までのものに差額を払って変えてもらったついでに、車掌さんと筆談したりして「勤務中いいのか」なんて思ったりした。いろいろおおらかな国ではある。
 なかなか面白かったのは中国人の女の子との筆談だった。


 西安から乗ってきたその女の子は、親父さんらしき人と二人づれだった。女の子をからかう親父さんに噛み付こうとしたりしてじゃれあっている。年は高校生か大学生くらい(あとで19とわかったが)のようにみえるが精神年齢は低そうだ。僕が、ほかの中国人と筆談などをしているとこちらを伺っている。そのくせ、だれかがあの日本人に興味があるのかとたずねると「興味ないわ」なんてすまし顔をしたりする。しかし、明らかに僕のことが気になっている様子だ。そんなわけで、女の子の向かい側に座ってみた。


 彼女は座席備え付けのテーブルの上で一元硬貨をコマのように回して遊んでいた。だが指ではじかず、普通のコマ回しと同じようにまわすもんだから勢いがでない。そこで、僕は左手の人差し指で硬貨を立てたままテーブルに押し付けつつ、右手の中指ではじいて回してみせた。
 コマは、勢いよく回った。


「コインを使って遊ぶのって楽しい?」
ニュアンスはよくわからない。いいトシして―という小ばかにしたつもりなのかもしれない。ともかく、彼女は僕の筆談ノートをとってそう書き込んだ。
「あなたの国にもコインってあるの?」
彼女は、さらに続けて書き込んだ。
僕は、少しいじわるっけを出して、親とじゃれあってる彼女をさして
「君は、親父さんとすごく仲がいいね」
と、わざと質問には答えないで、逆にからかった。すると、
「あんたほんとにむかつくわー。あんたみたいなガキに何が分かるのよ」
なんて書いてきた。ただ、別に険悪な雰囲気じゃない。
「あんたって、日本人っぽくないよ。ほんっといやだわ」
彼女はつづけた。
 僕は少しおかしくなって、さらにこの子をからかってみたくなって
「君って、素直じゃないよね」
と筆談ノートに書き足した。けっこうテンポのいい会話のようだけども、いちいち辞書で調べながら書いてるから実際は途切れ途切れだ。
「そうよ、素直じゃないの。私はとっても冷酷よ。人を殴るのが一番すきなの。あなた(中国語の)勉強したってうまくいかないわよ」
―残念だけど
「うまくいきそうだよ。君のおかげで」
僕も負けずにやり返す。実際、この子のおかげで辞書と悪戦苦闘しながらも何とか会話をつづけているのである。
「私って、ほんと不幸だわ。まだ、私をいじめるつもり!」
さすがにぼくもこのへんにしとこうかな、と思って
「そんなことないよ。僕はただ君に非常感謝してるだけなんだ」
これはもちろん正しい日本語ではないが、僕は実際「非常感謝」とノートに記したのである。


 「非常感謝」が効いたのかどうかは知らないが、雰囲気が変わった。
 彼女は、やけにしおらしい表情をしたかとおもうと、こう書いてきた。
「恋愛したことある?彼女いるんじゃない」
「いないよ」
「でも、恋愛したことはあるんでしょ」
「まあね」
「わかれたの?」
「そう」
ここまで来ると、一種礼儀だと思って
「君は彼氏いるの?」
と僕のほうも聞いてみた。
「いないわ。彼はもう別の人と結婚しちゃったのよ」
最初の感じとはうってかわってしゅんとしている。
「気を落とすなよ」
「がっくりしたわよ。今はどうしたらいいか分からないわ」
僕は、ちょっと慰める気になった。
「君、今いくつなの」
「18よ。すぐに19になるの」
「まだまだ若いじゃない。俺は23だよ」
と、ここから急に話の方向がおかしくなって、
「しってるわ。でも、私たちはだめなのよ」
「だめなのって、何が?」
うすうす答えは感づいていたが、一応聞いてみた。
「だって、私は中国人、あなたは日本人‥‥」
―どうしてこんなことになったんだ。別に口説くつもりはなかったし、口説き文句もなかったんだと思うけど―
 内心、苦笑いする僕にかまわず彼女はつづけた。
「あなた中国の女の子好き?中国好き?」
僕はもちろん、好き、と答えておいた。
「ありがとうね。今日はとっても愉快な一日だわ。わたしとってもうれしい」
最後は、気味が悪いくらい素直になった。
 僕は末っ子だけど、なにか妹のように彼女のことを感じたのだった。


 硬座24時の旅を終えて、電車は終点、蘭州駅に滑り込んだ。
彼女も、ここで降りる。
 降り際に、また例のすまし顔で
「再見!」
と手を差し出してきた。そのやけにすました顔が小憎らしい。
 僕は、愉快だった硬座24時ともさよならだな―と、一抹の寂しさを感じながら、手を差し出し返した。

2004年8月13日金曜日

洗礼(2)


 ベンチにへたり込んだ僕の頭には「珍しく自分で何にも調べず適当に行動するからこうなるんだ」「乗り遅れたもんはしょうがないから、しばらく休んで次の行動を考えよう」といった思いが去来していた。


 そこに、あまりにも意気消沈している僕を見るに見かねたのか、一人の中国人が寄ってきた。
「チケットを見せてみろ」
「電車はもう行っちゃったんだよ」
僕はこういいながらポケットからチケットを取り出した。
 彼は一通りチケットを眺めると、
「大丈夫、これなら明日のおんなじ電車のチケットに換えられるよ」
と、僕の筆談ノートに書き込んでくれた。
「どこに行ったらいいのか」
さらに聞くと、一緒にいってやるからついてこいとのこと。


 彼はとても優しい青年で、外見は頼りなさそうに見えるがいろんな人にたずねて窓口を回り、明日の同じ電車の寝台が満杯で交換ができないとわかると、払い戻しをしてくれた。さらに、滝のような汗をかいている僕に飲み物を分けてくれた。
こうして、無事払い戻しを受けた僕はお礼を言って彼と別れたのであった。


 少し落ち着いた僕は善後策を講じようと、また姉のところに電話を入れた。寝台にこだわらず、座席でもいいから今日のものと同じ列車のチケットを購入してなるべく早く沿岸部を離れる、ということになって電話を切る。そこでふと、いままで腰に巻いていたウエストポーチを見ると、とんでもないことになっていた。
 チャックが開いている。中に入っていた、デジカメ、ガイドブック、トラベラーズチェックがまさに忽然と消えていたのである。まったく気づかなかった。ある意味、盗んだ奴の手口を褒め称えたいくらいである。電車に乗り遅れて、中国人の彼の後ろについてうろうろしてた間か、電話をかけている間だったのか。とにかくもこれからの旅行に欠かせないものがなくなってしまったのである。いつもならばチャックに鍵をかけているのだが、ドタバタしていたせいでうっかり忘れていたのが仇となった。


 さすがに、このときばかりはショックだった。唯一の救いは、一番大事なパスポート、現金などは貴重品入れの中に入っており大丈夫だったことだ。
 すぐさま再度姉に電話を入れると、「あんたアホねえ」とあきれられたが、とりあえず高いところでもいいから宿を決めて、明日の朝チケットを買うように指示を受けた。しかも姉の余っている銀行のカードをあとで僕のほうに送ってくれるらしく、お金の心配はするなとのこと。こういうときには非常に頼りになる姉である。


 僕は、「奔流」の人が泊まっていた駅前の「良安大酒店」というホテルを宿に決め、落ち着いた。


 中国の洗礼を浴びた。
 田舎から出てきた人で職が見つからない人も多い。いかにも観光客然とした格好で駅前をうろうろしていてはそのような人のよい標的になるだろう。電車に乗り遅れたショックでだいぶパニックになっていたらしいが、蘇州のことも含めだいぶ自分に油断というか不注意があったことは確かである。


―結局は、金なんだな―
 人の行動原理は、金、或いはその日に食べるものがあるかで規定される。
日本で普通の暮らしを送っていると、ついつい忘れてしまいがちなことだ。
僕の物を盗んだ人を、ましてや200元とって上海まで連れてきた人を、しつこい客引きたちを責めるわけにはいかない。
 あたりまえの基本原理をわすれ、油断をした者が悪いのだ。


 熱い風呂に浸かって、ベッドの上に体を横たえそんなことを考えながら、目を閉じた。中国二日目の晩のことである。

洗礼(1)


 本当に上海駅に帰れるんだろうか。。。このままどこかに監禁されて身包みはがされるんじゃないのか。。。小心者の僕は、中国人3人が同乗する車のなかでそんなことを考えていた。

 話は、その日、つまり上海上陸の次の日の朝に遡る。「奔流」の人たちと蘇州に日帰り旅行をすることを決めた僕は、「奔流」メンバーたちが宿泊するホテルへバスで向かった。ところが上海の道路事情は悪く朝から大渋滞である。結局歩いていくのと同じくらいの時間をかけてホテルに到着。大分待たせてしまった。
 後から考えると、この時点で今日は何か歯車が狂いかかっていたのかもしれない。
 さて、全員そろって電車のチケットを購入し蘇州に向かう。ここまではよかった。蘇州まで電車で一時間弱の小旅行。目に映るすべてのものが新鮮だった。上海駅前に集まる(群がる)民衆の群れ。荷物預かり所での、店員との会話。中国の電車と、その車窓の風景。
 蘇州は、春秋時代の呉の都があった場所である。「臥薪嘗胆」の故事の生まれた国である。伍子胥!范蠡!僕の心はすぐに英雄たちへと飛んで行った。
 しかし、そんな僕を現実に引き戻すかのように、電車を降りた僕らを待っていたのは、客引きたちの群れであった。蘇州は、今では水郷として有数の観光地となっている。
「金というものは、人間の行動を規律するひとつの普遍原理である」
 今後、旅を続けるにつれ思い知らされたことを始めて痛感したのは、この後起こることを含めたこの日の一連の出来事だった。
 客引きの彼らは、とにかくすごい。延々と頼みもしないのにいろいろしゃべりかけてくる。タクシー乗らないか、一日ツアーはどうだ等々。帰りの電車のチケットを買うために窓口に並んでいる僕らにもまだ延々としゃべりかけてくる。
 僕の上海発の電車は16:50ごろ。この日上海駅に帰ったその足で、蘭州行きの寝台列車に乗り大移動するのである。奔流の人たちは18:00くらいに上海駅近くのホテルに帰ればいいので、僕は先に帰らなければならない。「奔流」メンバーのチケットは容易に買えたのだが、僕の要求を満たすチケットはなぜか「没有(ないよ)」といわれてしまった。困った僕だが、車で行けば一時間ほどで上海駅に戻れるそうなので、そうすることにしてとりあえずレンタサイクルを借りて市内観光に向かうことにする。
 レンタサイクルを探して、僕らは客引きの一人についていった。当然向こうは値段を吹っかけてくるので交渉が必要になる。結局一人一日12元になったが、あとで街中の自転車屋の看板を見ると一日レンタルで4元と言う値段表示があった。まんまとだまされたわけである。それはともかく、デポジットとしてパスポートを預けなければならなかったのだがあいにく持っているのは僕だけ。そこで、僕だけが先に帰らなければならないことを説明して、僕が先に自転車を帰しに来たときにパスポートを返してもらうがよいかと尋ねる。いろいろやり取りはあったが向こうは頷くので通じたと思ってぼくのパスポートを預けて出かけた。今にして思えばこれが大きな誤りだった。冷静に考えれば、向こうは僕ひとりが帰ってきたときにパスポートを渡してしまえばデポジットを預かっている意味はなくなるわけで、そんなことに同意するわけはないのであった。それに気付いたのは、観光を途中で切り上げ皆にお別れをして、レンタサイクル屋に戻ってきたときだった。
 僕は自分の借りていた自転車を返すのと引き換えに、パスポートを返すことを要求したが当然向こうはほかの3人の自転車と引き換えでないと渡せない、という。電車の出発時刻まであと2時間と少ししかない。こっちも必死だったので日本語で怒鳴りながらいろいろ交渉した。結局僕の上海から蘭州行きの切符と時刻をみせて必死で訴えると、200元置いていくことで許してもらうことができた。ほかのみんなに書置きだけ残して、すぐに車をチャーターするために駅前に急ぐ。
 気持ちはあせるばかり。あわてて道路を渡ろうとするから、自転車に轢かれかける。僕は、ダッシュで駅前にたむろする客引きの前に戻った。
「上海まで車で行きたいのだが」
こういうとすぐに人が寄ってきた。電車のチケットを見せて説明をすると、
「君はこの電車に乗らなければならないんだろう」
と、足元を見られる。結局200元払って上海まで乗せてもらうことになった。行きの電車賃はたった30元ほどだった(もっと安かったかもしれない)。
 ともかくも、これで時間内に上海に帰れる、と安心して交渉成立後おっちゃんについていったのだが、なぜかすぐ車が来ないらしく15分ほど待たされる。「快点(急いでくれ)」と書いて見せるが「大丈夫、30分前には上海駅に着くよ。保証する」というだけである。
 そんなこんなで、やっと車が来たと思ったら、なぜかすでにおっちゃんの知り合いらしき人が2人乗っている。どういうことなんだろう―という僕の心配をよそに車は観光客でにぎわう蘇州駅の前から上海に向け出発した。
 こうして冒頭のような状況が出来上がったのである。


  
 僕は監禁されたくはなかったので中国に住んで仕事をしている姉の元に電話を入れようと思った。そこで、おっちゃんに携帯を貸してくれと頼むと案に相違してあっさりOK。早速電話を入れてみる。
「ちょっと困ったことになった―」
僕は一部始終を話すと
「200元払わされたのはしょうがないだろう。ちゃんと上海に行くか聞いてあげるよ」
というので、おっちゃんと電話を交代した。
 よくわからなかったが、いろいろ会話をした後、安心しろ、絶対上海まで行くからとおっちゃんがいってきた。おっちゃんの電話番号も姉が知っているわけであるし、もう無茶なことはすまい。ようやく僕はほっと胸をなでおろしたのであった。
 工事区域の多い高速道路で途中何度も足止めをくらいながらも、僕を乗せた車は発車時刻の10分少し前に上海駅前に文字通り滑り込んだ。僕は、猛ダッシュで預けてあった荷物を受け取り、改札口に向かう。中国の駅は、最初に構内に入るために改札があり、そこで荷物のX線検査をすまし、自分の電車用に指定された待合室で待ち、時間が着たらさらに改札を受けてホームに下りるシステムである。最初の改札をすぐに済ませた僕は、電光掲示板で自分の待合室を確認した。2階の奥のほうである。時計を見るとまだ発車まであと7分ほどある。改札は発車の5分前で打ち切られるのでぎりぎり間に合いそうである。ところが、掲示板で確認した待合室に行ってみると、待合室の掲示板では別の電車が表示されている。変更にでもなったのか―僕はまた猛ダッシュでインフォメーションにむかった。そこで教えられた、階段の下の待合室に行くと誰もいない。おかしい、とおもって暇そうにおしゃべりをしていた駅員にチケットを見せるとどうやら最初に行ったところであっているらしい。
 人間って、いざ、っていうときになれば何でもできるんだな。
 
 蒸し暑い8月の上海駅を汗まみれで重い荷物を背負って駆け回りながらそんなことを考えていた。意外とこんな状況でも頭は冷静である。さて、最初の待合室に戻ってみると実は待合室の掲示板のいくつかあるもののうち、前方のほうの掲示板に僕の乗る電車が出ていたのであった。あまりに近すぎたのと、あせっていたので見落としていたのである。
 まだ、発車まで2分ほど残っていたものの改札はすでに締め切られている。係員に日本語とも中国語ともつかぬ言葉にならないような叫びで呼びかけるが、彼はただ首を振るだけ。そうこうしている間に発車時間は過ぎてしまった。
―乗り遅れた。やってしまった―
 僕は燃え尽きてしまった明日のジョーのようにベンチにへたり込んだ。
 そのときはわかっていなかった。電車に乗り遅れたくらい、まったく大したことではないということを。

2004年8月12日木曜日

新鑑真


 「一人で中国まで船旅なんてさぞかし退屈だろうなあ」
船で中国に行く、などという話をするとこのように思われる方も多いかもしれない。それは決して間違いではないと思う。でも、ぼくは思う。時間さえ許すなら最高に贅沢で面白いのはこの船旅ではないか、と。


 僕の乗った船「新鑑真」は神戸からの出航だった。上海まで2泊3日の船の旅である。
 もちろん、キャンペーンの安い料金で乗るので船室は相部屋である。―どんな人と一緒になるんだろう。乗船手続きや出国審査を終えて船室に案内され、若干緊張した声で、
「こんにちは、よろしくおねがいします」
と、同室のメンバーに声をかける。よくいったもので、案ずるより生むがやすし。30分後には、船の中のレストランにて青島ビールで乾杯していた。僕以外の二人の学生は未成年らしいが。。。


 さて、腹も膨れて一服するといつの間にか船は瀬戸内海を進んでいる。
 船の乗客には様々な人がいた。僕が話した人だけでも、中国で化粧品をひろめて儲けてやろうという人、留学している友人のもとに遊びに行くという人、一人旅をしようという人、休暇を利用して旅行する学校の先生、日常の暮らしでは決して会うことのできない人ばかりだ。そういう人と話をするだけで新鮮である。
 退屈さ、旅行という非日常空間ゆえの開放感。
色々理由はあるのだろう。船の中では、なぜか普段よりも知らない人と口をききやすい。ともかくも、僕は船の中でいろいろな人としゃべった。




 船の中で一番親しくなったのは「奔流中国」という大学生のツアーの一行だった。このツアーには、シルクロードだとか、チベットだとかいろいろ行き先があるようだが、僕が出会ったのは内モンゴルに行って乗馬キャラバンをするという一行。40人弱のツアーだったがもともと知り合いの人は少なくほとんどが今日初めてあった人だとか。一人旅をするものから見るとみんなでわいわいがやがややっているのはうらやましい限りである。そんなわけで、夜、その一行の飲み会に強引にまざってしまった。最初の緊張はどこへやら、図々しいの極みではある。でも、みんな今日知り合った人同士だからか、すんなりと受け入れてもらえる。中には、船を下りるまで僕のことを「奔流」の人だと勘違いしていた人までいたようだ。


これは帰りの船での写真




 次の朝も、「奔流」のメンバーに対して開かれる中国語教室に混ぜてもらったり、夜は「奔流」のメンバーの一人の誕生日会をして、そのあとみんなでペルセウス座の流星群を眺めたり。あの星空のすばらしさは忘れようもない。
 
 2泊3日の旅の長さなんて全く感じなかった。


 どうやら、「奔流」の人たちは上海到着の日の夜と、次の日は自由行動らしい。誰が言い始めたのか、ということもなく、行動を共にする話が持ち上がった。まず、到着の日の夜は同室の男の子と、一人旅の女の子、「奔流」の3人、僕、で雑技団を見に行くことに。次の日はその「奔流」の3人と蘇州に一日旅行することになった。
 その後、夕方の列車で僕は西安を超え、シルクロードへの入り口蘭州へと旅立つ。


 こうして、僕の旅の出だしは非常に楽しい、幸先のいいものとなった。次の日、一気にどん底に叩き落されることになるのだが。

長江の河口は水が黄色い

2004年8月10日火曜日

シルクロードの旅-プロローグ



 「西域」

 この言葉を思い浮かべるたびに、心は浮き立つ。
これは、中国の西側、現在の新疆ウイグル自治区を指す呼称である。或いは、広く中国の西方面―西安以西、インドや中央アジア―を意味する。シルクロードといったほうが通りがいいかもしれない。
 この言葉を耳にして、あなたは何を考えるだろう。砂漠,ラクダ,西遊記,あるいはシシカバブのような食べ物のことを思い出す人もあるかもしれない。

 僕は、班超という人が好きだった。虎穴に入らずんば虎児を得ず、西域を駆け回ること30余年,老いて玉門関をくぐり何を思ったか。
 中学生のころ、井上靖の「異域の人」という短編に心を躍らせたものだ。
 彼は、後漢書を編纂した班固の弟であり、後漢初期、匈奴に支配されていた西域を平定するのに大きな功績があった人である。
 そんな西域に、以前から漠然と行きたいと思っていた。兵どもが夢のあと―ではないが、僕の抱く「西域」のイメージは一言ではいい難いがこんなである。

どこまでも青い空とサバクとラクダ、ありきたりだがシルクロードのイメージはそういう感じだ



 2004年6月の終わり、司法試験の論文試験への準備に追われる僕に俄かにこの憧れの地を訪れる計画が湧き上がった。
―試験が終わった後の遊びの予定っていうのは今のうちに立てておくものなんだよ。それを糧に試験まで頑張れるんだ―
ある先生の言葉が心に響いた。法律に関する質問をしている機会であった。
 試験のことで頭がいっぱいで行き詰りかけていた僕にその言葉は新鮮だった。早速僕は中国行きのフェリーのチケットを予約してしまった。
「計画なんか後からついてくる―」
いつだってそうなのだ。
キャンペーンで往復2万8千円、上海でのホテル一泊と一ヶ月の中国ビザつきでこの値段である。しかも出発はお盆の時期の8月10日。飛行機ならこの何倍もするであろう。
すでに、僕の心は想像の中のシルクロードをさまよいはじめていた。もちろん、ほどほどに、ではあるが。
 こうして、中国の旅についての夢想を清涼剤に僕は試験を乗り切ったのである。

 試験が終わると、旅行に持っていくための小さなギターを半ば衝動買い。こうして、中国語もまったくわからない浪人生の初めての中国一人旅が幕を開けるのであった。